第三章 その3

 深くなった皺が蠢く。そして貝の口がパッと開くように皮膚が割れ、白いものが見えた。その白いものは皮膚の皺のない部分にも侵食していき、やがてピンと張り詰めた白い花びらが一枚せり出した。特徴的な大きな花びらはすぐに百合の花のものだとわかる。

 夏目漱石の夢十夜にあったな、とぼんやり思った。男が土を掘るシーンで。いや男が持っていたのは真珠貝だった。土を掘る真珠貝は月の光を受けてキラキラと輝いている。そんな場面を白い花びらは思い出させた。それはまだ明けきっていない空の、夜の色と弱々しい朝の光の混じったものが、百合の花びらを照らし出し、無数の色を反射させているせいだ。

「ねえ、わたしの花はまた咲くのかしら?」

「それは……」

 こんな時はどんな物語を語ればいいんだろうか。そもそもカワグチさんはそんなこと望んでいるのだろうか、わからない。わからないから俺は正直に首を振った。

 カワグチさんは笑みを深めたように見えた。

 頬や片目が見えなくなって、かわりに隠れていた花びらや、めしべやおしべが現れる。カワグチさんはそれには構わずに、俺に左手を突き出す。

 そこには薬指と小指しか残っていなかった。他の三本があるところにはすでに百合の花と茎が現れている。

「カヨちゃん、に……」

 カワグチさんはそう言うと、まだ無事な右手で左手の花を掴んで腕から引き出した。それに引きずられるようにして何本もの百合の花が現れる。その度にカワグチさんの左腕は短くなっていく。カワグチさんが掴んでいた花が球根まで出てくると、それが合図のように体のいたる所、あごや足元からもぼろぼろと泥人形のように崩れていった。泥人形が崩れれば乾いた土になるが、カワグチさんは生き生きとした花になる。

 俺に向かって花が投げられる。俺はそれを空中でキャッチした。カワグチさんは残っている右手も思いっきりふると、そこも崩れ、花になっていく。花は勢い余って俺の方に飛んできた。それも数本腕の中に収めた。

 カワグチさんが倒れる。

 腐っている死体のほうへと。

 カサッと乾いた音がした。倒れたところにカワグチさんの体はもはやなかった。そこにあるのは、カワグチさんの着ていた服と、無数の百合の花だ。朝日は花を目覚めさせるように、百合を叩いた。花びらが白く輝く。

 風がでてきたのか、花びらと服がそよそよと揺れた。

「カワグチさん……」

 応えてくれる声はない。

 風向きが変わったのか百合の香りが鼻についた。遺体の腐臭も。俺は混じり合った匂いに気持ち悪くなり、すぐに立ち去った。

 徒花病患者がいまのような開花期を迎えると、体にあるものはなにも残さない。彼らはあまりにも貪欲だ。

 苦痛のない死を迎える代償。それは骨すら残せないことだった。

 苦痛のないことがわかっているのは、多くのマウスによる実験や、死を目前にした徒花病患者の協力のお陰だ。

 開花期を迎えた患者の脳の状態をMRIで検査したり、密封された空間で、ワイヤレスマイクで自分の状態を話してくれた患者もいる。俺もその映像を資料として見たことがあった。さっきのカワグチさんのように、体が崩れながらも、最後まで体の状態を仔細に語っていた。

 すでに明るくなっている道を戻りながら、百合の生き生きとした姿を観察する。百合の茎は長く、球根から生えている根っこもあった。花屋にあるような切られたものではない。野生の生きようとしている荒々しい姿がそこにはあった。

 カワグチさんの家について、静かに玄関を開けて中に入ると、ふすまがぱっと横にスライドしてカヨが不安そうな顔を出す。

 カヨは俺を見るとほっとした顔になった。

「おばあちゃんが……」

 俺はうん、とうなずいた。起きた時、隣にカワグチさんがいないので不安だったろう。それに俺も。

「一人にして悪かったな。カヨ、落ち着いて聞くんだ」

 俺は大きく息を吸い込むと続けた。

「カワグチさんは……さっき花になった」

 俺は手の中にあった百合の花を差し出す。手元にあった百合は三本。それを三本とも近づいてきたカヨに渡した。

 カヨは受け取るとしばらく百合の花を眺め、顔に近づけて匂いを嗅いだ。俺には百合の花に埋もれて、カヨの顔が見えなくなる。

「おばあちゃん、いい匂いがする」

 カヨはまだ美しい物語を信じている。

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