第四章 その1
タナシ家 アキラのいつもの朝
目が覚めると私はいつも繰り返す。日常というものだ。顔を洗い、歯を磨き、髭をそり、シャツとズボンに着替えそれがすむと再び洗面台に立ち鏡をのぞきこむ。そこには三十代半ばを過ぎた疲れた顔、左目の下には二本の傷跡がある男の顔があった。目の下の傷は犬に引っ掻かれた時についたものだ。犬が最後に残した爪痕。私はその傷をそっと撫でる。
私の大切な日常。
家の掃除をし、押し花の様子を見て、ドライフラワーを観察し、リビングにいる花に話しかけ、食事をし、食器を洗い、動物を罠にかけ、くびり殺し、生き血を絞りだす。
それが私の日常。
❇︎ ❇︎ ❇︎
もう少し寝ていていいとカヨに言ったが、カヨは首を横に振った。俺も眠りが足りないのは自覚したが、寝付ける自信がなかったので、起きていることにした。靴を脱いだ時、靴箱に書き置きがあったことに気が付く。
家にあるものは好きに使いなさい、とだけ書かれた紙だった。俺はその紙を持って居間に行き、仏壇に置いた。これはカワグチさんが書いた最後の文字だ。戒名の代わりに仏壇に置いておく。
からりと隣の部屋に続くふすまが開く。カヨはもう着替えていた。
「カワグチさんが家のもの、持って行ってもいいって。朝メシ食ったら、必要な荷物まとめてでかけるぞ」
カワグチさんが貰ってきてくれた、残りの缶詰二つをカヨに食べさせる。
食事が終わると俺は使えるものはないか家の中を探し回った。カヨは庭に行って花壇のすみに百合を一本植える。
カヨの作業を見ながら、カワグチさんの旦那さんが詠んだ和歌を思い出した。
「植えし植えば……」
俺の言葉にカヨがシャベルを持ったまま振り返って首をかたむけた。
「在原業平という人が詠んだ和歌だよ。ずっと昔の人だ」
「その人は骨になったの?」
「ああ、そうだよ」
その骨自体もう残っていないだろう。
カヨは納得したようにうなずくと、居間に上がって仏壇にあったプラスチックのボトルを花瓶代わりに、茎を半分に切って百合の花を生けた。きっと、庭に根付くことや、水で花が長持ちすることを期待しているに違いない。ボトルは軽く、大きな百合の花を生けると倒れそうだったが、百合の花はゆらゆらと揺れるだけで、倒れはしなかった。
俺は俺で引き出しを開けたり閉めたりを繰り返す。全てはパッと見て判断していった。長い時間をかけてもしょうがない。いつあの男たちがやってくるかわからない。急ぎ準備をしてさあ出発しようと立ち上がる。
居間を覗くとカヨがいない。首を傾げながら庭を覗いてみるが、庭にもいなかった。どこにいったんだ、と寝室のふすまを開けると、掛け布団がもりあがっていて、それがわずかに動いている。
「カヨ」
掛け布団の動きがピタリと止まる。
「もうすぐ出発するから、お前も準備しておけよ」
俺はそれだけ言うとふすまを閉めた。
結局、小さな懐中電灯、ライター、ロウソク、それと飲み水をもらっていくことにした。カワグチさんの家には食べ物はもう残されていない。
俺がリュックにそれらを詰めていると、カヨが寝室から顔を出した。手にはお絵描き帳と百合の花を持っている。
「もう準備はいいか?」
カヨはうなずくと仏壇の前に座って手を合わせる。俺はソレに手を合わせる気にはなれず、大きな仏壇とそこに飾ってある百合、そして白いボトルを見つめていた。
不吉な仏壇だった。
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