第五章 その4

 ハッと目を開けると、くすんたショッキングピンクの壁とくたびれた観葉植物、壁にかかった店内の案内図が視界に入った。全身が強張っている。自分がどこにいるのかわからない。

 スッと何か動く気配がして見ると、カヨが俺の顔をのぞきこんでいた。

 寝ていたのか……。

 腕時計を確認すると十分ほど針が進んでいる。俺はやっと自分の状況を思い出した。

「すまない、寝ていた」

 カヨは首を振る。夢で掴まれたほうの腕も確認する。そこにはもちろん掴まれた跡なんてありはしなかった。ただ、小さなコブがちらほらと見えた。コブの形は歪だ。

 何をやっているんだ、俺は。まぶたを閉じてコブを視界から消す。早く東京に行きたい、教授のところに行きたいのに。いまだに関東の外れをうろうろしている。追われている途中で道を見失ったりしたせいでもあるが、それでも時間がかかりすぎている。このままではどこともわからない場所でカヨを一人にすることになる。それは避けなければならない。それなのに、ようやく落ち着いて話を聞いてくれる人に出会えたと思ったら、すでに病魔に冒されていた。

 せめてもの救いは、自分の病気の進行具合が遅い部類に入ることだ。

 仕方ない、行けるところまで行くしかないのだ。気持ちを切り替えようと、カヨに確認する。

「俺は……なにか寝言を言っていたか?」

 カヨは首を振ったあとで、躊躇うように口を開いた。

「でも……」

「でも?」

「苦しそうだった……」

 小さく掠れた声を聞いた時、一人道路の真ん中でたたずむカヨが脳裏に浮かんだ。どこに行ったらいいのかわからずに、一歩踏み出せず、あたりを見回すことしかできない小さな、ひとりぼっちの子供。

 ダメだ。それだけは避けなければ。そんなことになる前になんとかしないと。

 俺は体に力をこめて息を吐いて立ち上がる。カヨには心配いらないと伝えて、念のためにあいつらが来ていないか外を確認する。それから建物に入っていった。

 目的は食品を扱っていたスーパーだ。

 こんなに大きなスーパーなら、なにかしらの食料が残っていることを期待したが、あったのはなにも置かれていない、ほこりのかぶった什器だった。

 その什器もアクリル板にヒビが入っていたりしてところどころ破損している。

「おい、俺から離れるなっ」

 俺はため息を吐きながら、ちょこちょこと先に歩いているカヨに向かって言った。

 カヨは体をピタリと止めると、すぐに小走りに戻ってきて、俺の隣に立った。

「うん、いい子だ」

 カヨの頭をなでようと手を伸ばす。彼女は首をすくませ、手をあげて自分を庇う動作をしたが、俺が頭をなでるだけだとわかるとそろそろと下ろした。それから体をこわばらせながら、黙って頭をなでられている。

 収穫はなにもなく、入ってきた時とは反対の出入り口から、人がいないか確認して外にでた。

 大きな道路があり、トンネルへと続いている。方面を教えてくれる道路標識はあったが、相変わらずどの方向が東京方面かわからなかった。

 仕方なく、今までと同じように袖ヶ浦方面を目指すことにした。そこまで二十一キロだ。

「ねぇ……」

「うん?」

 周りを警戒しながら歩いていると背後から声がかかった。珍しくカヨから声をかけてきた。

「あたしって生きていていいの?」

 俺はハッとして、後ろを振り返る。カヨはなんの嘆きも哀しみもなく、淡々とした表情で俺を見上げてくる。

「それは……」

 もちろん、と言おうとした時、突然幼い子供の声が頭の中で響いた。声がでない。

 ——死んでしまえ、死んでくれ。

 そう叫ぶ子供の声が。カヨに言わなければ。いや、そもそも俺に生きていい、死んでいいなどと言う資格があるのだろうか。

 せまい体の中で何かがせめぎ合う。

 だが、言わないと。カヨには言ってやらないと。

 自分自身に命令するが、声をだそうとするとあの幼い声が飛び出してきそうだった。冷たい汗が背中を流れる。

 死を懇願する声。頭蓋骨の中で反響する言葉は、目の前を暗くさせた。呼吸が乱れ、思わずよろける。

 カヨが息を呑んで俺に近づいてきて、オロオロと手を上げ下げしている。

「だ、大丈夫だ……」

 俺はなんとか絞り出した。

「すまない。さっきたくさん走ったから……」

 俺は息を吸っては吐いてを繰り返して、気持ちを落ち着かせながらなんとか言った。

 体勢を立て直すと、カヨをうながして歩き出した。そろそろ今日の寝床を確保しないといけない。

 カヨと歩きながら、さっきの子供の叫び声が頭の中で残響していた。

 父と母が離婚した後の日々。思い出したくもない。

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