第五章 その5
父は結局、母と離婚した。どちらから言い出したのか、ぼくは知らない。ただ、父に連れられて市役所に行き、父がカウンターで紙を市役所の人に渡しているのを、少し離れた場所にある椅子に座って眺めていた。
父は帰りにレストランに立ち寄り、ぼくにハンバーグを食べさせてくれた。目玉焼きも乗っている豪勢なハンバーグにぼくは大満足だった。それを伝えても、父は少し笑うだけでなにも食べなかった。
本格的に父と二人だけの生活が始まった。その頃の父はまだ少し働けた。学校から帰ってきてからはすぐに友達と遊びに出かけるのだが、夕方になって家に戻ると、一人だと実感し、どうしても寂しさが込み上げてきた。
だからか、父がスーパーのお惣菜を買って帰ってくるといままで以上に嬉しかった。ガサガサと袋の音を立ててリビングにやってくる父に向かっておかえりと言った。言いながらぼくは慌てて宿題を広げて、ちゃんと宿題をやっているふりをする。
「ただいま」
父は言いながらぼくのノートをのぞきこむ。
「なんだ、全然進んでいないじゃないか」
父に笑いながら言われて、ぼくは反射的にノートに覆いかぶさった。
「だって面倒なんだもん。こんなの電卓使えばすぐに終わるのに」
いまやっているのは算数の宿題だ。ぼくは唇をとがらせた。
「そんなことしたらお前のためにならないぞ」
「宿題が終わってご飯食べられるから、十分ぼくのためだよ」
「そうじゃない。いまやっているのは算数から数学へと続く大事なステップなんだ。それをちゃんとやらないと。数学というのは大事なんだ」
「本当かな?」
お菓子を買う時も、電卓があれば財布の中にあるお金でどれだけの物が買えるか、すぐにわかるではないか。
「数学の考え方を身につければ、出てきた問題を分解し、どうやったら答えに辿り着くのか倫理的に解き明かせる。数学の証明なんてまさにそれだな。そうやって考える力を養ってくれるんだ」
「うーん……」
ショウメイなんてものをやったことがないぼくにはイメージができなかった。
「それに数字の正確性、公平性が人を豊かにしたり、人々を仲良くさせたりしてくれる」
「どういうこと?」
「たとえば目の前におやつがあるとするだろう。そうした時、友達と均等に分け合うには、計算する必要がある」
「それだけ?」
「まだまだあるさ。たとえばある地域にどれほどの食べ物が必要かどうか。あるいは水の消費量から一つの夏を越すのにどれくらいダムに水があればいいのか。今までの数字を元にして、未来につながるための数字を計算し導ける。どこをどうやって計算していけばいいのか、数学というのはそういう考える力を与えてくれる。わかったか?」
「う……ん。なんとなく」
「よし、じゃあ宿題を半分終わらせたら夕飯にするとしよう」
ぼくは鉛筆を持って、夕飯獲得を目指した。
そうして寂しくも穏やかな日々が過ぎていった。
「引っ越そうと思う」
ある日父は言った。唐突だったのでぼくは父の言っていることを理解するのに時間がかかった。
「……どこに?」
「お父さんが育った家に」
それは電車で三十分ほど行ったところの町で、父の育った家から十分も歩けば海にでる。とてもいいところだった。
「学校は?」
「転校することになる。すまない」
友達と離れるのは寂しかったが、父を困らせたくなかったので、ぼくはうなずいた。引っ越しの理由はヤチンとか父の仕事のこととか、いろいろあるらしい。いま住んでいるのは古いマンションでエレベーターがない。父は日に日に家に帰るまでの階段が辛くなっていたようだ。父の実家に行けば二階建てだが、父が寝起きする場所は一階にすれば生活もしやすい。ぼくにはいまひとつ理解できなかったが、家のお金が足りなくなっていることは薄々わかった。
引っ越しの荷物は少なくして、家にあるもののほとんどは業者さんに処分してもらった。
処分が終わり、ガランとした部屋に入る。家具の下に隠れていた長年溜まったほこりが目にとまった。
母はいまどこにいるんだろう、と唐突に思った。長年住んでいた家がこんなにも空っぽになってしまったら、母が帰ってきた時に、きっと寂しがる。
寂しがってほしい。
「母さん……」
その人に呼びかける言葉を言った。ひどく久しぶりな気がする。
なにもない空間を見て、目に見えないものによって家族がバラバラになるとはどういうことか知ってほしかった。それはこんな風に、ほこりしかない虚しい場所になることだ。
結局そんな時は来ないだろう。ぼくはなんとなくわかっていた。
「準備はいいか?」
ぼくの背後から父が声をかける。
「……うん」
「それじゃあ、行こうか」
父に促されてぼくは、ぼくの家を後にした。
引っ越しが終わってからは、生活を切り詰める日々が続いた。幸いなことに学校にはすぐに慣れたし、親しい友達もできた。だが、お金のことはどうにもならなかった。母は家のお金をかなり宗教団体に使ってしまっていたらしい。
「すまない」
父はお金のことを話すたびに、そう口にした。自分が病気にならなければ、母を止められれば、離婚した時に裁判をおこせれば、そんなことが言外から滲み出ていた。。裁判をしなかったのはなんのことはない、父にその気力と体力がすでになかったからだ。
「……すまない」
父がそう言うたびに胃の底がムズムズし、体の中にどろりとした嫌なものが溜まっていく。それを少しでも解消したくて、父にはバレないよう、母の入った白虹の会という宗教のチラシをぐしゃぐしゃにしたり、カッターで切り裂いた。
特に白虹の会という大きな文字や、教祖の顔は念入りに切り裂いた。
満足気に笑っている教祖の顔を切り裂くたびに、家族をバラバラにしたこいつに、体の中を這う、どろりとしたものをぶつけてやりたかった。
それと同時に家族というものはいかに脆く、壊れやすいものなのかを思い知った。
手元にあるチラシを切り裂き終わると、目を閉じてぼくだけは父のそばにいて、父の家族でいようと誓った。
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