第六章 その3

「お父さんが寝ているときにチョロチョロと動き回られてたまらん」

 ねずみなんていない。見ていない。しかし父はいまもねずみの姿を追っているのか、視線が動き回っている。

「なぁ、ねずみ取り買ってきてくれ」

 ぼくはどう返事したらいいのか迷った。こういうとき、むやみに否定してはいけないとお医者さんから聞いていた。

「ねずみ……でも、ねずみかわいいよ」

 おずおずとそう言うと父は破顔した。

「そうか、そうか。おまえは優しいな」

 父はぼくの頭、茶色っぽい髪の上に手を乗せて撫でる。撫でるというよりはたんに手を乗せただけだが。父の手が離れるとぼくは風呂場に向かった。風呂場の脱衣所は洗濯物で溢れている。溢れているといえば廊下も古い雑誌や本、ぱんぱんに詰まったゴミ袋などが転がっていて、ものが溢れていた。それがもはや当たり前になったいま、片付けるという発想すら思い浮かばない。ぼくは当面の着るものを確保すべく自分と父の下着や服を洗濯機に放り込んでいく。

「……」

 一瞬自分を呼ぶ声を聞いた気がした。だが、それよりも洗濯を終わらせたいぼくは、気のせいだろうと作業を続行する。

「……っ!」

 もう一度、今度は確かに聞こえた。ぼくは持っていた洗濯物を放り出し父のいる居間へとむかった。

「もう、なにっ?」

 ふすまを開くと同時に声をかけた。作業を中断された苛立ちが声に如実に現れた。

「父さんっ!」

 体をくの字に曲げて倒れ込んでいる父を見て、背筋がぞっとした。慌てて駆け寄る。足元は掛け布団がかかったままだ。さっき上半身を起こしたのはいいが、それだけでは布団から出るのは難しかったのか。

 父がぼくの体を支えにしてようやく起き上がるとすまない、と言って下半身を引きずるようにしてお膳の前にようやくたどり着いた。

 左の肘をついて体を支えながら、右手で箸を握る。また倒れるのではないかと、心配で父の体を掴んだまま離れられない。

 大丈夫だ、と言う父を素直に信じられず、恐る恐る手を離して食べ始めるのを待った。

 もう一度大丈夫だ、と言われて仕方なく居間をでて、また風呂場へと向かう。洗濯物を放り込んで、洗剤のボトルをを掴んで、中身を押し出す。

 昨日はお膳のところに一人でいけたはずなのにどうして?

 すぐに答えは見つからず、いたずらに不安が頭をもたげた。

 ふいに喉や鼻が詰まった。ぼくのかわりになったように洗剤がゆっくりとでてくる。洗剤液を通してみる世界は濁り、歪んでいた。


 歪んだ視界の中に光が現れた。俺は自然と目を開ける。

 昔の夢だ……視界に、顔に朝日を感じて呟いた。昔の夢を見ていたんだ。自分を安心させるように繰り返す。

 空を見上げると今日も曇っていたが、目を覚ますには十分な光量のようだ。

 軋む体を起こして大きく息を吐く。

 子供の頃の夢を連続して見るなんて……。昨日の、カヨの問いかけのせいか……。

 そういえば結局カヨにはなにも言ってやれなかったことを思い出して、苦いものが込み上げてきた。俺には人に生きろ、などと言える資格なんかない。いや、そもそも誰かが誰かに、生きろもしくは死ねなどと言う権利なんかあるのだろうか? 

 それでも言ってあげないと、この小さな子供は不安だろう。

 いつかは言おう。いつかは。やがては来なくなってしまういつかだが、その前に。

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