第六章 その2

 最近の青汁は飲みやすいように改良されている。それにもかかわらず彼女はそれを飲むのを渋るのだ。だから、口直しができるよう、最初に飲ますようにして気を遣っているのだが、嫌そうな顔をされる。これには納得いかない。押し付けるようにしてコップを渡せば黙々と飲むので、俺はそれで良しとした。

 いつものように渋々と飲み始めたカヨの顔を見ながら、彼女にはなんの栄養素が不足しているのか頭を巡らせる。体が成長するためにはタンパク質が必要だが、肉や魚などは姿を消して久しい。手に入るとすれば、缶詰の魚やコンビーフなどだろう。いっそ錠剤になっているプロテインが手に入ったら楽なんだが。

 カヨが青汁を飲み切るとリュックから魚の缶詰を取り出して、割り箸と一緒に渡す。カヨは蓋を開けるのに若干苦労したが、俺が手を貸すまえに蓋を開けると、一気に中身を食べ始める。焚き火ごしに小さな体を丸めていそいそと食べている姿を見て、こいつは健康なんだと安心した。

 パチパチと爆ぜる音だけが聞こえる。自ら輝く光。

「ロウソクは自分自身で光輝くから、どんな大きなダイヤよりも美しい……」

 輝くことはできず、薄暗い自分の人生のことを思った。俺は薄暗い中で侵食されながら終わるだろう。缶詰を食べ終わったカヨがキョトンと顔を上げる。

「マイケル・ファラデーの言葉さ。彼はロウソクの実演が好きだったんだ」

「ま……い、ける?」

 誰? と言いたげにカヨは首をかたむける。

「昔の科学者。カヨもまた学校に通えるようになったら聞く名前だ。覚えておいて損はない」

 彼女は小さく首を振る。学校が嫌なのだろう。それとも名前を覚えるのが面倒なのか。

 お前にはこれからがあり、きっとその先で光輝くこともできる、そう思ったが言わないでおいた。

 食事が終わったので、カヨに軽く歯磨きをさせ、毛布を何枚か重ねて敷布団の代わりにしたものにカヨを寝かせる。娯楽なんて一切ないので早く寝てしまうに限る。なにより明日も歩くのだ。

 カヨが大人しく寝たのを確認して俺も毛布と毛布の間に入り込む。今日は疲れた。体を横たえるとすぐに睡魔がやってきた。うつらうつらしてくると、遠くから父が自分を呼ぶ声がした。

 いけない、このままだと昔の夢を見てしまう。だが、一度横たえた体を起こす気力がすでになかった。意識は遠くの日々へと引きずられていった。


 授業が終わり、終礼の挨拶がすむと、ぼくは一目散に小学校の門を飛び出していった。背負ったランドセルの金具がダメになったのか、走るたびに閉じたはずのかぶせがバコバコと浮き上がっては下がる。そんなことは気にせずに走り続けた。海沿いのガードレールで仕切られた細い歩道を駆け抜け、断崖などと呼ばれる風景を視界のすみでとらえながら走りつづける。たどり着いたのは古い、庭の手入れなどろくにされていないぼくの家だった。正体不明の白っぽい点々がついた汚い引き戸の前に立ち、ぼくは大きく息を吸う。目にかかった茶髪をかきあげ、視界を広くした。

 学校でなにか発表する時よりも、最近では家に入る瞬間が一日の中で緊張する時だ。

 長くはためらわない。そんなことをしている時間が惜しい。大きく息を吸い込むとすぐにガッと引き戸を開いて、大きな声でただいまと言った。中からすぐにおかえりという声が聞こえ、ぼくはほっとする。履き潰した靴を脱ぎ捨て家に上がる。真っ直ぐに居間に向かった。

 ふすまを開けると、二人も座ったら膝がくっつきそうなほど小さなお膳の向こう側で、布団にくるまって寝ていた父が顔をあげてぼくのほうを見てくる。おかえり、ともう一度言ってくれた。ぼくはランドセルを下ろして、起きあがろうとしている父のそばに駆け寄って、背中に手を回して体を起こすのを手伝った。小さな子供の力では、大人の上半身を起こすのさえ一苦労だ。父も震える両手を駆使してなんとか起きあがろうとする。この時間は特に体を動かしにくいようだ。

「おトイレは?」

 父は弱々しく首をふる。

「おまえが帰ってくるまえに……」

 どうやらぼくが帰ってくるまえに一人で行けたようだ。上半身を起こすのさえ大変そうなのに、よく行けたなと思う。同時に一つでも自分のやることが減ったことにほっとした。

「お腹は? 空いたよね?」

 父に体を起こすのに成功させると聞いた。父は小さな声でいや、そんなには……と曖昧なことを言ってくる。ぼくは父の返答など深く聞かず、すぐに台所に向かった。すでに体の一部のようになった踏み台を片足で引き寄せて、それに乗って冷凍庫からうどんを取り出す。鍋でお湯をわかし、具材と一緒に凍っているうどんを放り込んだ。鍋は真面目に洗っていないので汚かった。煮ているその間にどんぶりを用意し、冷蔵庫から昨日作っていた麦茶を取り出して飲んだ。冬の始まり、寒くなってきた季節だが、走って火照った体に冷たい麦茶は心地よかった。

 お湯が再沸騰したのでつゆを入れて完成。どんぶりに移すのがいまだに上手くできない。どうしてもつゆがこぼれたり、うどんが二、三本どんぶりに入らなかったりする。今日もこぼれ落ちたうどんをちゃっかり口に入れて、咀嚼しながら父の元へと持っていく。手もうどんのつゆがひっかかってべとべとするが気にしない。

「ふぇひた」

 うどんが口に入ったままだと上手く喋れない。父はまた横になっていたようで、よろよろとゆっくりと起きあがろうとする。お膳にどんぶりと箸を置いて、父が体を起こすのを助ける。

「なあ……」

 やっとのことで上半身を起こした。父はいまの動作だけで疲れたらしく、ぐったりとした声をだす。引っ越しをしてから父の病気は一気に進行した気がする。

「なに?」

 ぼくは畳の上に腰を下ろすと父の次の言葉を待った。

「最近、ねずみが多いなぁ」

 父の言葉にドキリとした。

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