第十四章 その3

 感染者が増えていると、世間が騒いでいるとき、私はよりにもよって仕事で二週間ほど家を空けなければならなかった。ようやく家に帰れる、妻と娘のそばにいてやれると思っていた矢先、妻から電話がかかってきた。奇妙なことだが、その時の妻の言ったことをよく思い出せない。自分たちは発病していたと言われたのはなんとなく覚えているのだが。それよりは携帯の呼び出し音のほうが耳に残っている。


「家に戻ってきてはいけないわ……」


 そんなことを言われたような気がする。

 電話が切れたあとはどこをどうやって帰ったのか覚えていない。気がつけば最寄りの駅にいて、改札をでると家まで走った。


 玄関のドアを勢いよく開けると、家の中は真っ暗だった。まさか、もう……、と体中の血の気が引くのを感じたとき、パタパタと二階の廊下を走る軽い足音がした。それを聞いただけで体の力が抜けた。あの電話の内容は嘘なのだろう。寂しがった妻が私を早く帰らせようとついたとんでもない嘘。


 仕方のない奴だ、と思いながら不思議と怒りは湧かなかった。

 家にあがろうとしたが、体の力が入らずうまく靴を脱げない。

 そんなに焦ることはない、玄関のすぐそばにある階段から娘が姿を見せるのはすぐだ。私はカバンを玄関に置きながら娘の姿が現れるのを待った。それなのに……妻が廊下を走る音も聞こえてきて、娘の軽い足音は消えた。


「……おとうさんっ」


 娘がむずかる声とともに聞こえた。

 頭が一瞬でパニックになった。

 靴を脱ごうとするがもたつく。自分を罵りながらやっとのことで脱ぐと二階へと駆け上がった。廊下の電気は消され、雨戸と部屋のドアは閉じられ暗かった。


 ただ一番奥の妻が仕事で使っている部屋から物音がした。なによりも娘の泣き喚く声がする。

 ふわふわした体でそこに向かった。ドアの前に立つと最初は大きな声で泣く娘の声が聞こえた。やがて小さなすすり泣きに変わり、息継ぎの合間に聞こえる妻の娘をなだめる声。その声も震えていた。何度か自分にも話しかけてくる。何か言うことは、と頭の中を探ったが、こんな時になにを言ったらいいのかわからず、ただひたすらここを開けてくれっと叫んでいた。

 本来言うべき言葉、別れの言葉や感謝や愛情の言葉を言えなかったのは、もうすぐ最期の別れだと認めたくなかったのかもしれない。


「開けてくれっ。ここを……頼む……頼むからっ。開けてくれっ! 開けろっ!」


 一体何度、開けてくれ、開けろと叫んだことか。そう何度も。

 だが、ドアが開くことはなかった。

 自分の叫び声の中で、妻の声も娘の啜り泣く声もしないと気がついた。


 我に返るとドアノブは壊れていて、手にはカナヅチが握られていた。手の平や腕がじっとりと痺れて痛かった。


 ……部屋にあったのは大量の花と、妻と娘の服だ。


 すぐに妻と娘を生かそうと花を水につけた。普通の花なら数日は保つだろうが、その花は一晩経ってみると、元気がなくなっていき徐々に枯れ始めた。私は切り花の鮮度を保つ溶剤を盗んだ。この時すでに人々は避難し始め店に店員もいなかったので、私はあっさり盗みに転じた。


 花をなんとか生かそうとしたが、その努力も虚しく、一本、一本と花は枯れていく。絶望感と無気力が体中を支配していった。そんな時、ニュースが届いた。ラジオから流れるニュースキャスターの声がこの徒花は動物性タンパク質を栄養源にしていると告げたのだ。私はいてもたってもいられず、近所の放棄されたペットを見つけては、動物の生き血をとるようになった。


「あれはあんたの家族じゃない」


 青年の言葉で私は現実に引き戻された。

「そんなことはないっ! あれは……あの姿は……、妻と娘だ。体があの花にかわっただけだ」


 たとえ二度と笑いかけてくれなくても。


「そうだ。だから私はあの花を生かさなければ。娘の言った言葉がわかるか?」

 自分もその時のことをうまく思い出せないのに何を言っているんだ。心が、頭が、舌が、すべてバラバラに機能している。


 それでいい……。自分が内包している支離滅裂さを許容し始めた。

 自分が分解されていく、これのなにが悪い。

 青年は黙って首を横に振る。


「死にたくない、と」


 そうだ、私は唐突に思い出した。小さく啜り泣く声の時、同じようにか細い声で娘は言った。確かに聞いた。耳の奥に残っている。


「それであの花に動物の生き血を吸わせていたんだな……」

「なにがいけない? 娘の……娘の願いを叶えるためだったらなんでもする」

「ああ、あんたは間違ってはいない」


 青年の思いもしない言葉に私はぽかんとした。

「俺には子供なんていないけど、たぶん子供にそんなことを言われたらなんだってする。ま、俺なんかにどうこう言われたくないだろうが」

 青年は片手で拳銃を腰のベルトにねじ込みながら言った。

「君は……」

 青年は息を大きく吸い込むと、いままでとは違う強い語調で言った。


「あんたの間違いはあの花を、奥さんとお嬢さんだと思い込んでしまったことだ」


 えっ……と小さく呟く。声というよりは喉を震わせただけの音だった。

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