第一章 その2

 予想していたのに死体を見た時、体が凍りついた。秋物のコートを着ているから、海風のせいで体が冷え込んだわけではないだろう。

 短い人生だが、遺体は何回か見たことがある。綺麗に整えられた、お膳立てされた遺体だ。それに海で死んでしまったぼろぼろの遺体も……いや、あれは結局見なかったのだ。見ることはなく、終わってしまった。

 つまるところ腐ってウジ虫のわいている死体を見るのは初めてなのだ。

「うっ……」

 俺は小さくうめいた。風向きが変わり、磯の香りと共にその独特な悪臭が鼻についたのだ。とっさにポケットからクシャクシャになったハンカチを取り出して口元をおおう。腐った死体は空中に病原菌を撒き散らすから近くの空気を吸うのは危険だ。もちろんハンカチで防げるものではないが。

 素早く遺体を検分し、再びビニールシートをかぶせる。顔の腐敗具合でわかったのは死後ざっと一週間から二週間、白髪と残った皮膚のたるみ具合から高齢の男性で目立った外傷はなし、ということだけだった。

 こんなところで衰弱死をしたのかと考えていると、気配があった。隣を見るとカヨが立っていて、彼女も鼻をつまんでいる。俺は持っていたハンカチをカヨの口元に押しあてる。カヨは訳がわからないといった表情で俺を見上げてくる。

「ひ、と……?」

 さっきと同じことをくぐもった声で聞く。持っていたハンカチをカヨに持たせて口と鼻をおおうように指示した。

「ああ、そうだよ。もう死体になっているが」

「シタイ?」

 カヨは不思議そうに聞き返す。

「人間が死んだあとの体のことだ。カヨも本とかで言葉ぐらい知っているだろう?」

 カヨは静かにうなずいた。だが死体は本という架空の世界にあるもので、現実の出来事とは大きく食い違っているのだ。

 いまの子供たち……物心ついてから、今日に至るまで身近な人が死んだとしても、死体を見た子供たちは限りなく少ないだろう。死はそこらじゅうにあるのに。特にカヨの事情だったら尚更だ。

「お花……じゃなくて?」

「違うな。死体っていうのは、このままの姿で死んだ体のことだ。昔はこの体を残して死んでたんだよ」

 昔? 昔というほど昔ではないはずだ。だが、その死に方は懐かしかった。

「シタイって臭いの?」

「時間がたつと、死体も腐るんだよ。野菜や肉が腐っていくように。腐った肉は臭かったろう?」

 カヨはきゅっと眉を寄せてうなずく。きっと人の家の冷蔵庫をあさっている時に、うっかり嗅いでしまった腐臭を思い出しているに違いない。

「それと一緒だ。前は人も動物も死んだら体を残して腐っていったんだ」

「腐ったシタイはどうするの? ずっと転がしておくの?」

 転がすという表現が面白くてふっと笑いがこみあげる。この子にしてみたら、こうやって死んだ人がごろごろと、いたるところにあるのを懸念しているのだろう。

「大丈夫。この人は埋葬してくれる人がもういなくなってしまったから、こうやって転がっているだけだ。埋葬……て知らないか。死んだ人の体は燃やして骨だけにするんだ。そうやって小さくしてお墓に入れる。それが埋葬。お前だってお寺にある、石が並んだ場所を見たことがあるだろう。あれがお墓。あの下に骨をいれるんだ」

「どうしてそんなところに入れるの? 死んじゃったのに」

「死んだからお墓に入れるんだ。骨だけになったその人が生きていたことを忘れないように」

「骨を残さなかったら忘れられちゃうの?」

 その言葉は心臓が鷲掴みにされたような苦しさをもたらし、答えられなかった。

 今日はよく喋る。この子がこんなにも問いかけ、喋るのは出会ってからはじめてだろう。もしかしたら自分の知らない形の死というものに困惑しているのかもしれない。

 カヨの問いには答えず、俺は手を合わせる。旧時代の死の悼みかた。死者の魂が安らかであれと祈る行為。その祈りの対象がなくなれば、この行為は無くなってしまうだろう。

「カヨ、お前も手を合わせておけ」

 俺は片目をうっすらと開けてカヨを見ると、カヨもおずおずといった感じでハンカチを挟んで両手を合わせてうつむく。明らかにどうしていいのかわからないようだ。

 俺は目を再び閉じて死体と向き合う。

 目を閉じても波の音は聞こえてくる。

 海がイヤになったにもかかわらず、耳は、鼻は、海の存在をしっかりと捉える。

くうくうくうくうなるかなすべくうなり……」

 気がつけば旧約聖書の言葉を口にしていた。海というものはなぜこうも身の内を寂寥感で蝕むのだろうか。なに? とカヨが小さく聞いてくる。目を開けて彼女の方を見ると、カヨは両手を合わせたまま、目を開けて俺のほうを見上げていた。

「コヘレトの言葉。わかりやすく言うと、なんという空しさ。全ては空しい。そんな意味だ」

 カヨは真剣な表情で俺の言葉を聞いて一拍おいた後、しぶしぶといった感じでうなずいた。きっとなにが言いたいのかわかっていないのだ。

「あら……この人に手をあわせてくれるの」

 老人特有のかすれた声が聞こえ、全身に緊張が走った。

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