第一章 その3

 あわてて振り返る。視界の先には高齢の女が立っていた。カヨも俺につられて振り返る。まだ一メートルは距離はあったが、老女の声は小さくともはっきりと聞こえた。

「ふっ、ふっ、人と会うのはすごく久しぶり……」

 切れ切れに笑いながら言う老女を俺は警戒しながら観察した。真っ白で少なくなった髪を肩まで伸ばし、まぶたは垂れ下がって目が小さくなっている。その目尻や口元にシワが刻まれていた。見かけからは八十代かと思えたが、杖を持っている割には背筋がしゃんとしているので、もう少し年齢は下なのかもしれない。

「あの……」

「この人、わたしの主人なの。ビックリしたでしょう? こんなところに死体があるんですもの」

 老女は俺を遮り勝手に喋り始めた。

「でもね、どうしようもなかったの。この人が死んだ時、周りの人たちはとっくにいなくなっていてね。こんなおばあちゃんでしょ? 一人じゃとても埋葬なんてできないから」

 老女はそう言ってカヨに目を向けるとにっこりと笑いかける。カヨは胸の前に手を持ってくると、所在なげにハンカチをもじもじと動かした。

「ここは夕陽が綺麗なの。いつもこの時間になると主人のところに来て眺めているのよ。一緒にどうかしら?」

 自分の眉が寄るのがわかった。死体と一緒に夕陽を見よう、そんな誘いをするなんてどう考えてもまともじゃない。

 高齢ゆえの認知力の低下か、孤独で心のバランスを崩してしまったのか。なによりご主人は一体なにが原因で亡くなったのか、疑問が湧き上がる。人の良さそうな老女だったが、警戒心が強まった。

「あの、俺たちはこれで失礼します」

 そう言って軽く頭を下げると、カヨもごくわずかに首を動かした。

「あら、もう行っちゃうの? せっかく久しぶりに人に会えたのに」

「すみませんが、夜が近づいてきているなら尚更です。日が暮れる前に寝床を確保しないといけないので」

 俺は拒否の意を込めて強く言った。

「だったらわたしの家で休んだらいいわ。お茶もなにもないけれど。ずっと歩いてきたんでしょう? 特別区に向かっているとしても、今日中に歩いていける距離じゃなかったはずよ」

 老女は俺の意図に気がついているのかいないのか、穏やかに言った。

 特別区……感染から逃れるために作られたシェルターとはまた別に、ある特定の地域ではインフラが残されている。半年ほど前、感染対策福祉局が定めた場所だ。シェルターに行くのを嫌がる人たちのためのものだ。避難を嫌がるのは主に老人だったが、若者も少なからずいる……いるはずだが……。特別区を何度も通ったが、残った人たちに出会ったことはない。人が住むための場所なのに。

 感染対策福祉局という組織も二年ほど前に設立されたばかりのものだ。福祉と名をつけたのは、感染対策を生活の中に取り入れ、衣食の基本が瓦解しないよう基盤を確保し、システムを作りあげるのが仕事だからだろう。

「ここから遠いんですか?」

「そうね……前にその場所を記した地図が配られたけど、無くしちゃったから正確な場所はわからないわ。でも、車で移動するにも二時間はかかるって主人は嘆いていたことがあったの」

「そうですか……」

 車で二時間、大人が徒歩でどれくらいかかるだろうか。子供を連れていればそれは何倍にもなるはずだ。

「だからね……いらっしゃい。わたしといるのが不安だったら、夜はご近所の家に泊まればいいわ。どこも空き家になっているしね」

 老女はそう言うとくるりと向きを変えて歩き出す。人の話を聞かないおばあさんだ。俺はあきれた。老女が着ている色の落ちたブルーのカーディガンと、薄暗いグレーのロングスカートが風になびいているのを見ながらさて、どうしようかと考えていると、意外なことにカヨが老女に続いて歩き出した。

 おいっ、と小声で呼びかけるとカヨが振り向き、黒々とした瞳を不思議そうに丸くし、持っていたハンカチを俺に返してくる。

 ハンカチを受け取りながら老女と子供の女二人はもうあれで家に行くことが決定したらしい。

 どうやら老女はずっとこの町に住んでいたようだ。避難勧告がでたあとも。なら俺たちを追いかけてきた連中と、なんら関わり合いはないだろう。その結論に達し、老女の提案を受け入れることにした。

 俺もカヨに続く。老女は段差の高い階段を難なく登る。杖も軽くしか使っていない。

 カヨが最初の階段に足をかけた時、彼女は動きを止めて困った顔でこちらを振り返った。何事か、と身構えると頭上から足音が聞こえてきた。それが真っ直ぐ近づいてくる。俺は咄嗟にカヨを抱き上げ、堤防の壁に張り付いた。ひっとカヨが小さく声を出したので、空いている方の手で口を塞ぐ。

 俺は息を潜め、上から見えないようにさらにピッタリと壁に張り付き、頭上の道路にいる彼らの様子を探った。幸いなことに車道にそって作られた堤防は背が高い。壁に体をくっつけていれば覗きこまれないかぎり、こちらの姿は見えない。

「おい、ばあさんっ」

 男のピリピリした声が聞こえる。俺たちを追いかけてきたシェルターの連中か?

 体が緊張する。

 避難シェルターにいたカヨと逃げ出して一週間。シェルターにいた連中はそうそうあきらめてくれないらしい。それはそうだろう。彼らにしてみたら、俺は憎しみの対象で、カヨはもっと根本的な排除するべき人間だ。

「ああ……なに? 急に大きな声出されたらびっくりするわ」

「この辺りで男と小さな女の子を見かけなかったか?」

 男は老女の訴えを無視する。やはり俺たちを追いかけてきた連中だ。まずい、と内心うめいた。老女はすぐに俺たちのことだとわかるだろう。

 こういう状況には何度も遭遇してきた。ある時は隠れて彼らが近くを通りすぎるのを待ち、ある時は姿を晒しながら走って逃げ、ある時はトンネルの出入り口を炎で包んだ。だが、今回は逃げられるだろうか。嫌な汗が背中を伝う。

 早く東京の中心、教授のところにカヨを連れていきたいのに。教授にカヨを見てもらえれば、この世界を覆う暗い現状も変えられるはずだ。それなのに……。

「男と、女の子?」

「そうだ。二十代半ばぐらいの茶髪の男に、小学三、四年ぐらいの子供だ」

 さっきとは違う男の声がする。二人か。俺は心の中でうめいた。

 カヨを見ると、カヨは目を閉じ、両の手は握り拳を作っている。その小さな手は微かに震えていた。

 カヨをおろして拳銃を取り出そうか? 嫌な考えを思いついてしまった。拳銃を取り出し、一気に階段を駆け上がって老女を押しのけ、驚いている彼らに一発ずつ……。

 ダメだ。俺はぐっと目を閉じて今の考えを打ち消した。ダメだ、できない。もう人を殺すなんてことしたくない。

 だが、この現状を打破する案が思いつかない。

 どうする……どうする!

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