第一章 その4

「知らないわ」

 きっぱりとした老女の声が、ごちゃごちゃになった頭の中に放り込まれた。俺は息を飲んだ。このおばあさんが俺たちを庇う理由なんてない。一体なぜ?

「本当か?」

 疑わしげな男の声が続いた。

「嘘をつく理由なんてないわ。そもそもここ数日、人なんて見かけていないの。あんたたちがその久しぶりってわけ」

 老女は堂々とした口調だった。俺は顔を上げて階段の上にいる老女の様子を探る。怯んだ雰囲気もなく、また俺たちを気にするような素振りも見せなかった。

「そうか、はぁ……クソッ!」

 男のどちらかがガードレールを蹴ったのか、ガンッという激しい音が聞こえてきて、カヨがビクッと震える。

 攻撃的な音に耳の奥がキリキリと痛み、それと同時に体の奥が熱くなっていく。

 彼らにとってみたらカヨは殺すべき人間だ。それがあらぬ誤解だったとしても。そして俺がどんなに言葉を尽くしても、彼らの耳には届かないだろう。そんな時は過ぎてしまったのだ。

「あのクソガキッ。どこへ行ったんだ?」

「荒っぽい。大きな音を出さないでちょうだい」

「うるせえっ! オレたちはあいつらを捕まえなきゃいけないんだ」

 老女の訴えに男の一人が噛み付く。

「その人たちを捕まえてどうするのよ……」

 老女はため息混じりの口調だったが、あくまでも冷静だった。老女の落ち着いた声に、俺も体の奥底から沸き上がってくる、マグマのような熱いものを抑えた。

「うるさくして悪かったな。おれたちには時間がないんだ」

「オレたちは、オレたちはもう……それにオレだけじゃない。オレの息子だって」

 男の苦渋の顔を見たような気がした。心臓の奥の奥が、削り取られていくように痛い。

「家族を失ったのはお前だけじゃないんだ。ばあさん、あんただってそうだろう? だから被害者をださないようにおれたちはあのガキを見つけて……」

 俺はハッとしたが、すでに遅かった。

「殺さないと」

 カヨを見ると、口を塞がれている彼女のまぶたは閉じられたままだ。ただ、顔が青白い。

「小さな子供を殺すなんて……なんてことをっ! 一体なんなの?」

 この時老女の声は驚いたような、激しいものになった。

「うるせぇ。あいつはなぁ、感染を広げているんだ。オレはだから……」

「おい、これ以上このばあさんに話してもしょうがない。ばあさん、確かにあんたからしたら、おれたちはとんでもない悪人に見えるかもしれない。だがな、やるしかないんだ。警察だっていまはほとんど動かない。いましかチャンスはない」

 警察が動けなくて助かっているのは俺自身もそうだった。

「じゃあな、ばあさん。いま聞いたこと、人に話すんじゃないぞ」

「……話したくても、人がいないわ」

 老女は吐き捨てるように言った。

 男たちの足音が遠ざかっていく。

 俺はいまからでも彼らに殴りかかりたかった。彼らの中の猜疑心や異物を排斥したくなる本能、そして恐怖心。それらが高まった時、感情が歪に固まったのにも気が付かず、根拠のない結論に到達して行動に移ってしまった、いや移らなければすまなくなった。

 こうなってくると、因果関係やそれに伴った事実をいくら口にしたところで無意味だろう。

「 あぁ……『憎い、だから殺す。それが人間ってものだ』……か」

 俺はヴェニスの商人のセリフを思わず口にしていた。口を塞がれているカヨはなに? と言いたげな目だけをこちらに向けてくる。しまったな、と俺は自分の迂闊さを自覚した。子供の前で、しかもこんな状況でいまのセリフは言うべきじゃなかった。

 今度はもっといい言葉を言おうと決め、俺はそっとカヨを下ろす。ゆっくりと階段を上り、顔を少しだけのぞかせて道路を確認した。男たちの姿はすでになかった。

 息を吐いて老女をうかがう。彼女は遠くの道路の延長、ずっと遠くを見つめていた。その方向に男たちは去ったのだろう。

「ありがとう……ございます」

 老女は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。

「あの、どうして助けてくれたんですか?」

 老女はすっと背筋を伸ばして口を開いた。

「行きましょう」

 それだけ言うと彼女は歩き出した。答えてくれなかったが、こちらに害意があるわけではなさそうだ。俺はカヨを呼び寄せて老女についていった。

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