第十八章 その3
「私は人を見下してなどいない。そもそも人間というものはなにかを、誰かを好きになったとき、その対象を知りたいと思うのだろう? 私も同じだ。私は君が考えているような冷酷な人間ではない。むしろその反対だよ」
「は?」
俺はついていけなくなった。
「私は人間を愛しているんだよ」
「なに馬鹿なことを……」
俺はもう一度イカルギに飛びかかってその体にナイフを向けた。だが、イカルギはナイフを避けながら、俺の手首を掴んだ。
「こんなにも知りたいのは私が人間を愛しているからだ。この深い愛情をどうして理解してくれない」
イカルギは笑みを深めたように見えた。
彼の言葉に、カワグチさんやタナシさん、そして死の間際まで自分の体の状態を話してくれた患者たち。そのすべての人が、侮辱されたような気がした。体の中を這っていたものが腹の中に溜まり、熱いものにかわって体から溢れそうになる。
「嘘つけっ! そんなことあるかっ!」
「親というものは、子供の悪い面があれば怒り、矯正しようとするではないか。最悪、そんなものはないと目を逸らす。だが、私は違う。私は人間そのものの悪い面も認め、受け入れよう。ならば私のほうが愛情深いと言ってもいいではないか」
違う、と思った。こいつの言っていることは決定的に何かが違う、と。
「ふざけんなっ! そんなの単なる屁理屈だっ!」
なおもイカルギの喉元にナイフを突き立てようとするが、見えない壁があるかのように手が先に進まない。こんなにも体力が、筋力が落ちている。
「わかってくれなくて残念だよ」
「拳銃をばら撒いて、人殺しをさせるような奴が、愛を語るなっ!」
「君はなにか勘違いをしているようだな。私はそれで人を撃てなんて命令も洗脳もしていない。私は言葉巧みに人を操る自信はあったが、それすらしなかった。私はただ拳銃という圧倒的な武器を安値で売っただけさ。そう武力を、暴力を、行使したのは紛れもなく個人個人の意思だ」
イカルギは笑みを引っ込め、ヒヤリと冷たい声で続ける。
「君はさっき私のことをネズミにたとえたが、ユダヤの言葉に『泥棒はネズミではなく、ネズミの穴だ』というものがあるのを知らないのか?」
「手前勝手なことを……」
呻きながら戒めから逃れようとするがうまくいかない。
「君はどうかね? 銃を買ったと言っていたが、使わなかったのか?」
虚をつかれ不意に体の力が抜ける。イカルギが勢いよく手首を捻ると体がぐらりと揺れ、俺が地面に転がった。ナイフはいつの間にかイカルギの手に渡っている。
「私は、私の人生は何も得ることができなかった。なにも無い人生だった」
イカルギの目の奥で、暗い怒りの炎がゆらめいたのを見た気がした。
「最後に長年の疑問を知ろうとしてなにが悪いっ!」
イカルギが体を落として俺に向かってくる。起き上がろうとしたが、一足飛びでイカルギが迫り、俺の体を押さえ込むと、俺の腹にナイフをつきたてた。
「っ!」
体に衝撃が走る。イカルギは素早く飛び退って俺から距離を取った。イカルギはいやらしい笑みを浮かべて口を開いた。
「……君だって撃ったのだろう? なら君も同じではないか」
ひどく遠くから声が聞こえた。そのくせはっきりと頭の中に入ってくる。呼吸が苦しい。いや、息を吸っているのか吐いているのかわからない……。
痛みはなかった。俺はすぐに上半身を起こして、ベルトに差し込んでいた拳銃を引き抜いてイカルギに向ける。
イカルギの顔を、正面から見据えて銃口を向ける。
——カナト、お前は大丈夫だ。
唐突に頭の中で父の声が蘇る。
撃鉄を降ろそうとした親指が、するりと外れてしまった。
しまった、と思う間もなくイカルギが大きく踏み出すと、拳銃を持っている手を蹴り飛ばした。乾いた音をたてて転がった拳銃を拾おうと手を伸ばしてみたが、あまりにも遠い。
信者の女が拳銃に向かって走り出す。
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