第十二章 その1

「あ、どうも」

 俺は玄関のドアが開くと、頭を下げながら言った。挨拶をしながら、男の体の隙間から家の中を素早くのぞきこむ。他に誰かいるのか。だが、廊下の向こうで動く気配はなかった。

 中途半端な探索をあきらめて、俺は真正面から男を見据えることにする。

 さっき見た時には気がつかなかったが、男は上背があり、頭一つ分俺より背が高かった。ほっそりした鼻筋や顎、垂れ目と普段であれば穏やかな人だと判断しただろう。いまは痩せこけた頬とじっとりとした瞳、そして目の下の二筋の傷がアンバランスで陰鬱な印象をもたらした。アンバランスさは男が痩せているせいだろう。

 男が少し微笑んだので、俺は体の力が抜けそうになった。いかん、いかんと再び気を引き締めて、食料を必要としているのだと伝えた。

 まずはメインの話ではないところから、ゆっくりと男の性格を探っていこう。


   ❇︎ ❇︎ ❇︎


 ああ、と目の前の青年を見ながら私は心の内で息を吐く。それがこれから一歩踏み出す過ちのためか、獲物が自ら飛び込んできた喜びのためか自分自身もわからなかった。

 目の下の傷が疼く。

 まだ、二十代半ばと思われる若い青年。V字のグレーのカットソーとインディゴブルーのデニムを履き、大きいつり目に薄い唇。さらに猫っ毛の茶髪が印象的だった。

 その茶髪を揺らして会釈した彼を、私はじっくりと観察する。頭を上げた青年は視線を少し泳がせていたが、すぐに淡褐色の瞳を私に向けた。彼は私と目が合うとぎこちない笑みを浮かべる。先に視線をそらしたのは私のほうだった。これは獲物だ。獲物の情報は狩れるか、狩れないかだけでいい。獲物を見つけた以上は狩らないといけない。もはや私には他の道などなかった。

 妻と、何よりも娘の願いを叶えるために。

「人が来るなんてひどく久しぶりです。どうしたんですか?」

 努めて冷静になるようにしながら、彼であれば何日ぐらいもつだろうかと、考えた。猫やネズミ、うさぎなどの小さな動物は一日分しかなかった。もっとも血というのは搾りとってからすぐに乾いてしまうというのもあるが。生かしながら少しずつ血をとっていった大型犬であれば三、四日分はあったが。

 自分も堕ちるところまで堕ちたもんだ、と自嘲した。そして目の前の青年に考えを読まれないよう、わざとらしく笑みを浮かべる。

「いや、実は……」

 青年は困ったように眉を寄せ、頭をかいた。明るい色の髪がそのたびに揺れる。

「知り合いのところに向かっている途中なのですが、食料がつきそうで。もし余裕があったら分けてもらえないかと……」

 青年はそこまで言うと、うつむいた。

「こんな感染が広がっている時にでかけたんですか?」

 私は心底呆れた。声に出たのだろう。青年は私の言葉を聞くと、ますますうつむいた。知り合いに会うために外をぶらつくなんて危険すぎる。

「そう言われるのも無理はないんですが、どうしてもその人に届けなきゃいけない大切なものがあるので……」

「事情はわかりませんが大変なようですね。いいですよ。うちにある保存食を少しですが分けてあげます」

「本当ですかっ。ありがとうございます」

 青年は顔をあげて、パッと明るい顔をした。改めて見ると人懐っこそうな顔立ちをしていた。その頭髪のせいで誰にでも不遜な態度をとってくる部類の人間かと思ったが、受け答えもしっかりしていて、案外根は真面目なのかもしれない。

 青年をうながし家の中に入れた。その時心の奥底にチリッと、電流を流したような痛みがあった。だが私はそれを無視する術を学んでいる。無視し続ければその痛みが徐々に小さくなっていくことも。

「保存食は物置にあるので。いまとってきますよ」

 そうだ、物置だ。

 ナタは物置にしまっていたんだ。

 唐突に思い出した。さっきとは違う。正真正銘の心からの笑みがこみ上げてくる。それにつられてか、青年も表情をゆるめる。

 青年をリビングに残し、私は外にでて裏庭にある物置に向かった。私にとってここを開けるのはいい気はしなかったが、必要なことだ。

 大きく息を吸って止めると、物置を開ける。中央のうずたかく積まれたものは見ないようにしながら、入り口の脇にあったナタを手にする。それとホームセンターから盗んだ真新しいガムテープをつかむと、物置のなかは見ないようにして、引き戸を閉めた。


   ❇︎ ❇︎ ❇︎


 快く……かどうかは俺にはわからなかったが、家にあげてもらった。

 第一段階は突破したな、と肩の力を抜く。

 しかし敷居を跨いで家に上がった時、鼻腔の奥に絡みつくような匂いがして、再び緊張する。廊下を歩いている間もずっと続いていた。

 ああ……、息を漏らした。血の匂いだ。さっき見た裏庭の光景が思い出される。

 どうする? どうすればいい? 

 頭の中を引っ掻いているだけで考えがまとまらない。

 逃げ出すことも、血の匂いの原因を尋ねることもできずに、促されるままリビングに通される。中を見て俺は言葉がでてこなかった。

 リビングに一歩踏み入れると壁一面に飾られたドライフラワーが目に飛び込んできた。花に詳しくない俺にその花の名前はわからない。だが、大量の花を男がどうやって手に入れたかは察しがついた。

 それを丁寧に飾っている意味も。

 本能的な恐怖を隠すため、冷静になるため、口の中にたまった唾を飲みこむ。

「保存食は物置にあるので、いまとってきますよ」

 男の声で我に返る。男は意外なほどゆったりと微笑んでいた。

「えっ……ああ、すみません。タナシさん。ありがとうございます」

 恐る恐る男の苗字を口にして、頭を下げる。

 男は、タナシはゆっくりと微笑んでうなずいた。

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