第十二章 その2

 背筋に嫌な汗が流れる。暑いわけでもないのに。それを誤魔化したくて、タナシに合わせるように笑みを作った。

 どうしてこの人は笑みを浮かべているんだろう。どうでもいいことが頭にチラつく。


「二日か三日分でいいですか? 本当はもっとあげたいところですが、こちらも数に限りがあるので」


 俺は背負っていたリュックを床に下ろしながらうなずいた。リュックの中身の貴重な物、食料や着火剤などはカヨとともに向かいの家に置いてきている。動きやすいようにコートも脱いで置いてきた。

「……それで十分です。感謝します」

 果たして持ってくるのは缶詰か? パウチのカレーか? それ以外のなにかか?

 疑問を口にだす勇気はなかった。


 鼻の奥に絡みつく匂いは、いっそう強くなった気がした。

 タナシがリビングから出ていく。最小限の音しかたてない、物静かな動作だ。俺はそっとリビングのドアに耳を近づけ、タナシが玄関から出ていくのをじっと待った。


 ドアノブが動いて、玄関の扉が開かれる音をかろうじて聞き取り、ほぉと長い息を吐く。

 いかんしっかりしろ、と自分を戒めつつリュックはその場に置いたまま、そっと廊下を出た。逃げるべきだ、と頭の中で警告する声が聞こえる。俺はその声を無視した。


 住人が近くにいるのに家探しのようなことをしてどうする? 必死に止めようとする自分がいるにもかかわらず、あるところに向かった。もう一人の自分は男の正体を確かめないと気が済まなかった。正体を確かめてなんになる? ともう一人の自分が聞く。


 明確な答えはない。強いて言えばせっかく巡ってきたチャンスを自分の憶測だけでふいにしたくはなかった。あの子を託せるという可能性はまだ失われていない。

 音を立てないように慎重に歩いていてもミシミシと廊下は鳴る。さっきタナシは音を立てていなかったのにな、と苦笑いが浮かんだ。

 それにしても、この家の匂いに相変わらず慣れることがない。自分の知っている血の匂い。


 肌で感じる死の影。


 波の音とぼろぼろになった死体。


 いや、あれはビニールシートに覆われて見ることはなかった。周りの大人たちがそれを止めたからだ。見ない方がいいと。遺体の確認は直接ではなく所持品でした。でも、俺はぼろぼろの死体を見た気がする。岩に顔面を潰され、魚に手足を食われ、波に洗われぼろぼろになった皮膚。それらをありありと想像できた。


 パンッ。突然耳元で破裂音がした。思わず耳を押さえる。飛びちる血と、血をまとわせながら舞う花。

 耳を押さえ、ぐらりと倒れ込みそうになる体をなんとか踏ん張った。

 俺が巻き起こしてしまった死の影。この家に入ってから強烈に思い出される。


 俺は小さくうめいた。こんな状態では万が一の時うまく対応できそうもない。自分がしくじった時のことを考え、カヨに向かいの家の中で隠れているよう指示しておいてよかった。最悪でも彼女が危険な目にあうことはないはずだ。


「いいか、二時間たっても戻らなかったら、あの家の人じゃなくて、食料配給車を見つけてそこに行くんだぞ」


 そう言って目的の場所を書いた紙と、手紙を渡した。その場所まで行き、手紙を教授に読んでもらえたら、きちんと保護して貰えるだろう。

「わかったな?」


 俺が畳み掛けるように聞くと、カヨは渋々といった感じにうなずいた。カヨはなにも言わなかったが、不安と寂しさが入り混じった顔をしていた。


 そんな顔するなよ。

 俺は心の中でカヨに言った。

 俺だって、冷たくしたいわけじゃない……。


 気がつけば洗面所に入っていた。右手に洗面台、左手に洗濯機。洗濯機の上には洗濯カゴ。ごく普通の光景だ。だが、と恐る恐る風呂場の引き戸に手をかける。

 もし俺の考えているようなことが行われていたのなら、やるならここだろう。俺だって風呂場を選ぶ。

 息を呑んですりガラスの引き戸を開いた。


 目の前には白いバスタブにクリーム色の壁。その白いバスタブや壁に黒いものが点々とついている。一瞬それは黒カビかと思った。思いたかった。だが、その中には赤いものも混じっている。やはり黒いものはカビではないだろう。

 頭がぐらりと揺れる。

 想像していたよりはずっとマシだった。

 だが、予想していたよりもショックを受けている自分がいた。


「……っ!」


 何を言おうとしたのか自分自身もわからない。足音はしなかった。ただ、反射的に振り返ったのと同時に何かが体の真横を横切る。驚きと恐怖の声は喉の奥で絡まってでてこなかった。バランスを崩して風呂場のタイルに尻餅をつく。


 痛みに耐えながら顔を上げると、タナシがナタを持って冷然と俺を見下ろしていた。

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