第十三章 その1
私の渾身の力で振り下ろしたナタは偶然によって避けられた。青年が振り返ると同時に体がそれてナタの軌道から外れたのだ。私は内心舌打ちをした。
ナタは……ナタは脅迫か鈍器のように気絶させるために持ってきたのだ。別に私自身もすぐに青年を殺そうとしていたわけではない。それなのに彼が風呂場をのぞいている後ろ姿を見た途端、訳もわからずナタを振り上げていた。壁に飛び散った血や、洗面器にこびりついた赤い色。それらを見られたと思った時、目の前が暗くなった。
「な、なにを……」
青年の言うことを最後まで聞く気はなかった。私は黙ったままナタを振り上げた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
俺はクソッとうめいて立ち上がる。それと同時にタナシにがむしゃらにタックルを食らわせる。足元が滑って勢いは出なかったが、彼を床に倒れこませるには十分だった。せまい風呂場のわずかな隙間を縫うようにして風呂場から逃げだそうとしたが、すぐに足がなにかに引っかかる。床に転がりしたたかに顎を打つ。顎を押さえながら振り向くと彼が俺の足首を掴んでいた。彼はその体勢のまま足元にナタを振り下ろそうとする。ナタを奪っておけばよかった。自分が思っているよりも頭がパニックになっていることをやっと自覚する。
「ま、待ってくれ。俺は……俺は」
うまく言葉が出てこない。
「俺は……」
ナタが振り下ろされる。俺は渾身の力を振り絞って掴まれている足を振り上げた。戒めが解け、太ももにナタがかする。ナタが自分の体に触れたという事実だけで、体の力が抜けた。
俺は崩れ落ちそうになる体を叱咤して立ち上がると、玄関に向かって走り出した。
ベルトに差し込んだ拳銃を使おうという考えが一瞬浮かんだ。それを使えば形勢は逆転するだろう。考えと同時に体の芯が痛み、実行できない。
不意に振り返ると、あのナタが眼前に迫っていた。
タナシがナタを振り下ろす。考えるよりもさきに横に飛んで転がった、倒れ込んだところは階段の踏み板の上だ。壁と壁に挟まれた狭い階段、両側にある壁が俺を救ってくれた。ナタは俺の体に届く前に、壁に食いこんだのだ。彼はナタを壁から引き抜くのにもたついている。それを見て彼から離れるべく階段を駆け上がった。
ああ……絶望に似た声が漏れる。
もうすぐ玄関だったのに。二階に行ってどうする。二階に上がったら逃げ場がなくなることぐらい百も承知だ。
踊り場を踏みしめて駆け上がる。ヤツがすぐそばまで迫ってくるような感覚がする。俺は振り返ることすらできず足を動かすことしかできなかった。
❇︎ ❇︎ ❇︎
青年が階段を駆け上がり、体から血の気が引いた。相反するように、目の下の傷が熱くなる。
待て……、そっちに行くな。
声がでない。私は初めて焦りのようなものを感じた。
あの部屋を見られてしまう、と考えると内臓を泥靴で踏みつけられたような屈辱感を覚える。
突然、仄暗い怒りが身体中を支配した。私は壁から抜けないナタを捨て、躊躇うことなく足を踏み出し、一気に階段をかけあがる。
廊下にでると、暗い廊下の一番奥で青年の姿が浮かびあがっていた。その奥の部屋のドアは開いていて、外の光が差し込んでいたのだ。恐れていたように青年は部屋をのぞきこんでいる。
よりによってあの部屋を……。
私は目眩がした。
「おい、そこから離れろ……」
ゆっくりと近づきながら言った。青年ははじめて私の存在に気がついたかのように顔をあげる。
青年は悲しそうな顔をしていた。
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