第二章 その4

「海辺で男たちから俺たちのことを聞かれたでしょう? あんな殺気立った男たちから俺らを庇う理由なんてないはずなんですが……」

「うまく言えないんだけど、たぶん嬉しかったから」

「嬉しい?」

「そう、嬉しかったの。あなたたちが主人に手を合わせてくれていたのが」


 カワグチさんは靴を脱ぐ手を止めて、息を吐いて続けた。


「憎々しく思っていた。勝手に死んだ時も悲しみはわかなかった。それでもわたしたちは家族になってしまった。だからなのね。主人に手を合わせている姿を見て、そんなことをしてくれる人がいるんだと、嬉しさが込み上げてきたの。自分でも驚いた」

「それでも、食料まで取ってきてくれて」

「いいのよ。困っている人は助けないと」

「どう……して?」


 不思議そうな声がしたので振り向くとカヨがふすまから顔をだしていた。


「どうしてだろう? ただ昔っから母には、困っている人がいたら優しくしてあげなさい。親切にしてあげなさいって教わっていたから……」


 カワグチさんは困ったように笑う。

「母はどうしてそんなことを教えたのかしらね。おばあちゃんにもわからないわ。もうこれは習い性なのよ」


 カヨは居間からでて俺たちのほうに近づく。俺はそっとカヨから目を離した。理由を尋ねられてもわからない、知らない。


「おばあちゃんの……お母さん?」

「そうよ。おばあちゃんにもお母さんがいたのよ」


 カワグチさんは面白そうに言った。

 カヨはカワグチさんの横顔をじっと見る。目の前のおばあさんと母と呼ばれる人の因果関係がわかっていないようだった。


「もう、とっくに骨になっちゃったけど」

 カワグチさんはその時のことを思い出したのか、そっと息を吐いた。

「骨……知ってる」


 カヨはなんの主張か、首を縦に振った。振り返ったカワグチさんはカヨの動作を見て声を上げて笑った。


「そうよ、骨になるの。カヨちゃんはよく知っているわね」


 カワグチさんはよいしょと廊下に立つと手を伸ばして、カヨの頭に触れようとした。カヨはビクッと体を震わせて一歩後ろに下がろうとしたが、狭い廊下ですぐに背中が壁にあたって、逃げられなかった。結果的にカワグチさんの手が届いて、カヨの頭を撫でる。カヨは俺を見て、んっ……と俺の方を指さした。


「そっか、お兄さんに教わったのね」


 カヨと俺には血の繋がりは全くなかったが、あえてそれを否定しなかった。

 カワグチさんはカヨの頭を撫でるのに満足したのか、手を離して居間に向かった。カヨもその後ろをついていく。カワグチさんはもらってきた缶詰を袋からだして仏壇に置いて、おりんを軽く叩く。

 チーン、という高く軽い音が部屋に響いた。カワグチさんはそっと手を合わせている。カヨも慌てたように膝をついて手を合わせた。


「台所にお野菜が少しだけ残っていたから、それも食べちゃいましょう」


 カワグチさんはお参りがすむとそう言って、よいしょと立ち上がり台所に向かった。カヨも立ち上がってカワグチさんに続こうとしたが、俺の前で立ち止まると仏壇を指さす。お参りしろと言いたいのかとカヨの瞳を覗きこむ。


「ここに骨……?」


 どうやらここに遺骨を収めているのか、と聞きたいようだ。俺は首を振る。

「仏壇に骨はないさ。骨を入れるのはお寺にあるお墓だ」


 カヨは首をかたむける。ならどうしてカワグチさんが手を合わせたのかわからないようだ。

 俺もどう説明していいのかわからずに困っていると、カワグチさんの声が聞こえてきた。


「ほら、あったわ」


 カヨはパッと体の向きをかえると台所に入っていった。

 居間に入って庭を眺めていると、鍋を持ったカワグチさんが勝手口から出てきた。カヨも後ろからついてくる。

 カワグチさんはすぐにライターで火をおこし、焚き火によって二人の姿が浮かび上がる。

 ほのかに照らされた庭の隅々には小さな花壇があった。

 やがて茹で上がった野菜を乗せた皿をカヨが持ち、カワグチさんも茹で汁が入ったお椀を二つもって、居間に上がってきた。


「味付けできるものがもうないから、蒲焼を乗せちゃいましょう。そのタレと一緒に食べれば美味しいはずよ」


 カワグチさんは野菜の入ったお皿にさんまの蒲焼を盛り付けてカヨに渡した。俺も野菜の茹で汁が入ったお椀をもらう。カワグチさんも同じものを飲むつもりのようだ。

 カヨはいそいそとご飯を食べ始めた。最初恐る恐る口に運んでいたが、やがて子供特有の不器用な動きで、ガツガツと口に入れ、すぐに飲み込んでいく。


「よく噛んで食べな」


 俺が注意すると、カヨはお箸の動きを止めて、キョトンと見上げてくる。わかったと言いたげに首を勢いよく縦に振ると、また急いで食べ始めた。咀嚼の回数も飲み込む速度も変わっていない。

 俺は呆れてカワグチさんを見た。彼女はそんなカヨの姿をにこにこ笑いながら眺めているばかりだ。カヨはすぐに食べ終わった。


「お腹いっぱいになった?」


 名残惜しいのかカヨはお皿を見つめて、お箸で蒲焼のタレを引っ掻いている。カヨはうーんと考えるような動作をし、その後でうなずいた。


「カヨちゃん、何か描いているの?」

 カワグチさんに言われてお皿をよく見ると、たしかに蒲焼のタレはカクカクとなんらかの形状を描いていた。

「……ネコ」


 カヨはかすれた声で答える。

「そう、ネコちゃんね。カヨちゃんは絵を描くのが好きなのね。それにお口も」


 よく見るとカヨの口まわりと頬には蒲焼のタレがついていた。カワグチさんはお椀を置くと、ちょっと待っていてねと言って立ち上がり、居間から出ていく。

 カワグチさんはすぐにお絵描き帳とクレヨンを持って戻ってきた。幼稚園で使うような、おえかきちょう、とデカデカとひらがなで書かれているやつだ。


「はい、よかったらこれ使って」


 差し出されたお絵描き帳とクレヨンをおずおずと受け取って、カヨは俺を見てくる。俺が小さくお礼は? と言ったが、カヨはカワグチさんに向かってうなずくだけだった。それがカヨのお礼みたいだ。

 カワグチさんはもう片方の手で持っていた布巾をカヨの顔に近づける。カヨは拒絶するように肘をあげたが、両手はお絵描き帳を持っていたことで、あまり効力はなかった。それに相手は人生の熟練者だ。カヨが少し肘を上げてもすいっとかわして、布巾で口元や頬を拭い始める。


「すみません、ありがとうございます」


 俺が代わりに礼を言う。

 カヨはいつの間にか目を閉じて、大人しく顔を拭かれていた。カヨの顔はカワグチさんのおかげでキレイになっていく。もう終わったわよ、というカワグチさんの声にカヨはゆっくりと目を開ける。


「……ねえ、どうして男たちに追われていたのか聞いてもいいかしら」

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