1話 渚瑛子①
「ただいま」
玄関の鍵を開けて入っていく。声に返事するものはおらず、単なる習慣として行っているだけのものだ。
瑛子は小学5年生の少女だ。黒髪が無造作に肩より少し先まで伸びている。顔立ちは年の割には大人びていて、目はやや吊り目で見るものによってはキツい印象を受けるかもしれない。
そんな瑛子はてきぱきと洗濯物を畳み、この家の主の部屋に入っていく。
ごちゃっとした部屋を見回して、はぁと力無い溜息をつく。
「まったくもう、全然片付けないんだから麻美さんは」
ぶつぶつ言いながら、部屋のものにはなるべく触れないようにして洗濯物をタンスに仕舞う。あまり長居をすると、片付けをしたくなってしまうので手早く部屋を出た。
それからは風呂場の掃除をする。湯舟をスポンジでこすりながら、ご機嫌そうな鼻歌を歌う。瑛子の好きなアニメの主題歌だ。
風呂掃除を終えて、ピカピカになった浴室を眺めてご満悦に笑む。実際はもっと時間をかけて行いたいところだが、それは休日の楽しみに取っておくことにする。
次は夕食の準備なのだが、その前に休憩することにした。
リビングに置いたままの自分の洗濯物と鞄を持って自分の部屋に入る。
特に物がない年ごろの少女にしては簡素な部屋だった。生活に必要な最低限の家具だけがおいてあり、この部屋の特徴を示すようなものは見当たらない。これは瑛子の趣味、というか無関心さを表すもので、この家に住むことになった際に安いのでいいと適当に選んだからだった。
洗濯物を片付け、鞄を定位置である机の横に掛けると、机の上にあるノートパソコンを起動させた。起動を待つ間にスマートフォンを開く。クラスでのグループ内のメッセージアプリのやり取りをさっと既読にして、麻美からの連絡がないことを確認する。連絡がないということは、帰宅の時間は変わらないということだ。
起動したノートパソコンを操作して、いつも開いているサイトを表示する。
「今日は……一話から見ようかな」
開いているのは、瑛子が登録している有料動画サイトだ。アニメが多く配信されていて人気の動画サイトで、瑛子の周りでも登録している人がちらほら見られる。
瑛子の目当ては決まっていた。瑛子はアニメ好きというには偏りがあり、流行りのアニメなどはまったく見ていない。
瑛子が好きなアニメは、魔法少女のアニメだ。特に魔法少女マジカルかりんというアニメにはまっている。タイトルの通り魔法少女が活躍する子供向けのアニメだ。三年前に一年間日曜日の朝に放送されていた。
いわゆる魔法少女枠とされるその時間帯では、毎年別の魔法少女アニメが放送されている。その中でもマジカルかりんはすさまじい人気を博し――たらしいが、瑛子にはそのあたりはよくわからない――いまだに根強いファンがいる。瑛子もご多分に漏れずにそういうタイプで、繰り返し視聴している。何周したのかは自分でもわからない。
このアニメの何が好きかと言われれば全部というしかないのだが、主人公の槐かりんが何よりも好きだというのがあげられる。槐かりんは瑛子にとっての理想の存在で、こうなりたいという憧れにすらなっている存在だ。
オープニング曲が始まり、小声で一緒に歌う。本編が始まったタイミングで、真横から何やら物音がした。アニメの音ではない。なんだろうと動画を一時停止にして、周囲を見回す。
「何これ」
それを口にしたのは瑛子ではなかった。瑛子の隣にいつの間にかいたそれだった。
口をパクパクさせて硬直している瑛子に気づいて、それは気楽に声を投げてきた。
「ん、いや、何これって」
問いを重ねてきたそれに向かって、瑛子はどうにか口を開いた。
「あ、あなた……なに?」
「何って」
それはきょとんとして、自分の体を見下ろした。
一言で言ってしまえば、それは青い兎だった。
瑛子は生の兎を見たことはないが、おおむねイメージ通りの兎だ。しかし、パッと見ただけでもおかしいところが少なくとも二つはある。
まず、全身が真っ青なことだ。まるでペンキで塗り固められたかのように不自然な青さだ。わざとらしい青色は、ちょっと目に痛いぐらいであまり直視したくない。
もう一つは、宙に浮いていることだ。
だから瑛子の真横から聞こえたのだ。兎は当たり前のように宙に座って(?)いて、瑛子と同じ目線の高さにいる。
常識から外れた光景に、何の反応をすることもできない。
兎は視線を瑛子に戻して苦笑した、ように見えた。
「こんな格好じゃ困るわよねえ」
「なんで、喋ってるの?」
「喋れるから喋ってるんだけどねぇ」
兎は困ったように言って、くりっと首を傾けた。
「ごめんなさい、この世界は来たばっかりで。さすがにこんな姿では困るんだろうけど」
「この世界……?」
「そう、この世界ではどうすればいいのかまだよくわからないのよ」
訪ねられた? と疑問に思いながら、どうにか言葉を返す。
「自己紹介、とか?」
「ああ、そうね。それは当たり前よね。ワタシのこと、知らないんだものね」
兎は何度か頷くと、瑛子に体を向けた。
「ワタシはヒューガ=ララット。ヒューガでいいわ」
「ヒューガ……?」
「それで、あなたの名前は?」
訪ね返されて、瑛子は慌てて答えた。
「渚瑛子、です」
「ナギサエーコ、いい名前ね。何て呼べばいい?」
「えっと、じゃあ瑛子で」
「わかった、よろしくエーコ」
よろしくと返しそうになって、違うと慌てて思いとどまる。
あやうく乗せられるところだったが、これはどう考えても異常事態だ。アニメを見ていたら青い兎と話しているというのはおかしすぎる。そんなものはそれこそアニメの世界だ。
(アニメ……)
ちらりとパソコンに目を向ける。動画はかりんが朝食を食べているシーンで止まっている。このアニメも、瑛子が見てきた魔法少女アニメは大体が妖精だかなんらかのマスコットがあらわれて魔法少女になる。
だけど、それはくまでアニメの話だ。現実にそんなことがあるわけはない。
ヒューガと名乗った青い兎に視線を戻す。兎が喋るのも、こんなに青いのも現実で考えるとあり得るわけがない、のだけど。
ヒューガはパソコンの画面をじっと見つめて、先ほどの疑問を繰り返した。
「それで、これはなんなの? さっきまで動いてたけど」
「アニメ、だけど」
「アニメって?」
「アニメっていうのは、動く漫画っていうか……」
「漫画?」
話の通じなさに頭を抱える心地でどう言ったものか考える。そんな瑛子をヒューガは答えを待つようにじっと見つめている。
瑛子は説明するのをあきらめて、黙って動画を再生した。画面の中のかりんが動き出し、ヒューガの視線もそちらにまた向いた。
瑛子も動画を見る。何度見ても夢中になるアニメだが、今は隣の兎が気になりすぎてまったく頭に入ってこない。
かりんは学校へ行き、友達と話し、遊び、家に帰る。そこに魔法界からやってきた妖精が現れて魔法少女となる。
かりんは早速と魔法少女に変身させられ、自身に起きたことに驚愕する。
「魔法少女?」
「うん、魔法少女マジカルかりんっていうアニメで……」
ヒューガの言葉につい応えてしまったが、ヒューガは瑛子の言葉をさえぎって続けた。
「この世界にも魔法を使う人がいるってこと?」
「え?」
「魔法を使えるから魔法少女なんでしょう?」
「いや、現実にはいないんだけど……これはお話だから」
らちの明かない問答に戻ったと思いながら答えると、ヒューガはそうとかすかに笑った。瑛子の目を覗いて諭すように言ってくる。
「魔法はあるのよ。いわゆる魔法少女はいる」
「……いればいいなとは思うけど」
適当に応じながら、目の前の兎も十分に常識から外れていることを意識する。これも魔法だと言われれば、そうなんですかと頷いてしまうかもしれない。だからといって興奮するとかはなぜだか全く感じられないけど。
ヒューガははっきりと笑った。兎の笑顔は不自然で、正直不気味だ。
「思うのね、おめでとう」
「……なにが?」
ヒューガは勿体ぶって言葉をためて、瑛子の鼻先にぐいっと近づいてきた。
「あなたは魔法少女になるの」
「はぁ」
生返事が気に障ったのか、ヒューガは眉をひそめて繰り返した。
「魔法少女になれるのよ、嬉しくないの?」
「いや、ピンとこないっていうか……」
またパソコンを見る。かりんが魔法を繰り出して敵と戦っているところだった。魔法少女としての力を手に入れ、魔法を振るい人を守っている。
瑛子にもそういったことに憧れたことはある。魔法少女になる妄想は、正直今だってたまにする。だが、本気でそんなことが起こるだなんてさすがにもう考えることはない。もうすぐ小学六年生で、一年と少しすれば中学生にもなる。いくらなんでもそれぐらいには現実は見えている。
鼻先のヒューガを両手でがっしとつかむ。悲鳴を上げるヒューガを無視して、何か仕掛けがないか全身をまさぐって探していく。手触りは毛皮のそれで生き物としか感じられない。
こんなイタズラをする人間は瑛子の周囲にはいないが、こんな話をすぐに真に受けるほど馬鹿ではないつもりだ。
しかしいくら探してもボタンの類などが見つかることはなく、暴れるヒューガは瑛子の戒めから脱出した。
「ちょっと、何するの!?」
「怪しいからなんかのイタズラかなと思って」
「そんなわけないでしょう!」
そんなこと言われてもと思うが、ヒューガは本気で怒っているようだった。がなりたてるヒューガに圧されて、つい「ごめんなさい」と口にする。
それが効いたというわけではないだろうが、ヒューガは急に勢いを失って項垂れた。つぶやく。
「まあ、こんな姿じゃ説得力に欠けると言われても仕方ないのかな。でも本当のことだよ。エーコは魔法少女になれるの」
「…………」
「ひょっとしてなりたくはなかった?」
勢いとともに声まで小さくなっているヒューガにかぶりを振る。
「なりたいけど」
「けど?」
「唐突すぎて信用っていうか、そういうのができない」
「なるほど、エーコの言うとおりね。実際にやってるしかないわよね」
言って、いささか調子を取り戻したように顔を上げると、部屋の中を見渡した。
「ここじゃ狭いわね。どこか広い場所に行きましょう」
「広い場所? 何するの?」
「そのアニメ? でもやっていたでしょう。エーコを実際に魔法少女にするわよ」
この宣言を受けて。
さすがに瑛子の胸にもかすかにわくわくが浮かんできていた。
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