16話 桐生苗⑨

「私はさ、お父さんにもお母さんにも叩かれたことなんかないんだよ。怒られたりはあるけどさ、叩く親がいるなんてこと考えたこともなかったから」

「……それで?」

「ああ、うん」


 リーフマンの促しに、続きを語る。

 ある日、彼女が学校を休んだ。風邪を引いたらしかったが、不安に駆られて見舞いに向かった。彼女の母親と鉢合わせたらと怖かったが、彼女への心配が恐怖を勝った。

 おそるおそるインターホンを鳴らす。少しして弱々しい「どちら様ですか?」という彼女の声がした。

 母親はいないんだと安心して、苗は表情を緩めた。


『苗だよ。おみまいにきたんだ』

『苗ちゃん?』


 彼女の驚いた反応に、得意げに胸を張る。


『そうだよ、びっくりした?』

『うん……』


 小さい返事を耳にしながら、おかしいなと首を傾げる。話すばかりで、一向にドアが開かない。


『ねぇ、あけてよ』

『…………』

『そんなに具合わるいの?』

『そうなの』

『そうなんだ……じゃあ、帰ったほうがいい?』

『……うん』

『わかった、おだいじにね』


 残念そうにつぶやいて、しかしその場を動かずにドアの脇にしゃがみこむ。

 ややあって、そっと玄関のドアが開かれた。隙間から、慎重に彼女が顔を出す。

 横合いから「ばぁ」とおどかすと、彼女はあっけなく後ろにひっくり返った。


『あはは、びっくりした?』


 笑いながら彼女の顔を覗き込んで、凍り付いた。

 彼女の右目には大きな痣ができていた。彼女は苗の視線に気が付くと、慌てて両手で右目を隠した。

 その腕を掴んで詰め寄る。


『どうしたのそれ!』


 見間違いではないだろうかと彼女の手を剥がそうとするのだが、彼女も全力で抵抗しているので剥がすことができない。


『やめて!』


 彼女の激しい制止に、苗は動けなくなった。左目に映る怯えが苗に向けられているのがわかって、苗の手がぶらりと垂れる。

 動かずに見つめてくる彼女に、弱々しく謝罪を口にする。


『ごめん……』


 苗の謝罪には反応せず、彼女は家の中に戻っていった。それなのにドアは閉められずに開いたままだった。

 しばらく迷って、苗も家の中に入っていった。

 彼女の名前を呼んでも返事はない。それでもすぐに見つかった。

 部屋の奥、背中を向けて膝を抱えてうずくなっている。小刻みに震えている背中を見て、とたんに現実感を見失った。眩暈に似た感覚にふらつきながら、今更部屋を見回す。変わらない荒れた部屋に、苗と彼女以外はいない。

 静かなはずの室内に、押し殺したような鳴き声が聞こえてきた。確認するまでもなく、彼女のものだ。

 いたたまれなさに帰りたくなった。それでも、苗は留まって訊ねた。


『お母さんにたたかれたの?』

『ちがっ……わたしが……わるいの』


 泣きながらでまったく要領を得なかったが、苗の質問を否定してはいないように思えた。


『ねぇ、大人の人にいおうよ』

『え?』

『たたくなんておかしいよ。だれかにいって……』

『ダメ!』


 彼女は振り返って絶叫した。


『でも……』

『おねがい。だれにもいわないで』


 彼女は泣きながら苗の足元まではい寄ってきた。すがるように苗の両肩に手を置いて、懇願してくる。


『ぜったいにだれにもいわないで。苗ちゃん、おねがい……』


 泣きじゃくる彼女を見ながら、苗は言うべきだと感じていた。自分たちは子供で、できることなんてほとんどない。苗は自分の両親なら信用できると思っている。こういう問題は、大人を頼ることが正しいことだ。

 そうしなければ、根本のところは何も解決しない。

 そこまで考えた苗は、彼女に答えた。


『うん、だれにもいわないよ』

『ほんと?』

『ほんとだよ、約束』


 彼女はほっとしたように笑って、涙をぬぐった。

 安心している様子に、自分の選択はきっとこれであっているのだと胸中で胸を撫で下ろした。

 肩越しに玄関を振り返る。ここでまた彼女の母親が来るなどしてしまえば、彼女はきっとひどい目に遭う。

 それを意識すると、一刻の猶予もないように思われた。


『じゃあ、帰るね』

『……うん』


 彼女は名残惜しそうに返事した。後ろ髪を引かれる思いを振り切って、急いで靴を履く。

 玄関のドアをそっと開ける。誰もいないことを確かめて、ほっとして彼女に向き直った。

 彼女は笑っていた。右目の痣は隠していたが、それでも嬉しそうにしていた。


『苗ちゃん、きてくれてありがとう』


 お礼を言う彼女は、そのまま消え入りそうに儚く見えた。

 目を擦って再度彼女を見つめる。彼女は当たり前にそこに立っていた。苗の突然の行動に微かに首を傾げている。


『また、来るね』


 それだけを言って、家を出た。

 日が傾いてきていた。徐々に暗くなる道を小走りで走りながら、苗は決心していた。

 彼女のことは、誰にも言わない。

 彼女がそう望み、約束したのだからそうするべきだった。彼女が叩かれないようにはしたいが、それは彼女の望みに沿って行われるべきだ。

 大人への相談が、きっと正しい。けれど、彼女の望みではないのならするべきではない。

 苗はこの決断に満足していたが、ほどなく後悔することになる。


「いなくなったんだよ、その子」

「……死んだのかい?」


 直截な言い方をするリーフマンを睨みつける。顔をしかめて否定した。


「違うよ、死んでなんかない」


 彼女の母親とその交際相手が逮捕され、彼女は学校から姿を消した。

 テレビのニュースでも取り上げられていたので、苗もその情報については知ることができた。その日のうちに彼女の家に行ってみたが、誰もいなかった。

 彼女は顔に熱湯をかけられて大火傷を負った。

 その話を聞いて、苗は深い後悔に沈んだ。

 結果的に彼女はあの家から解放された。しかし顔に消えない傷を負ってしまった。どうしているのもわからない。

 やはり大人に言うべきだった。彼女との約束を守ることはできたが、それで彼女がそんな傷が負ったのでは意味はない。


「あの時、私が正しいことを選べていればあの子はそんな目には遭わずに済んだかもしれない」

「それでキミは……」

「うん、正しさを貫きたいって思った。それが、一番大事なことだから」


 あれ以来、正しいと信じたことを迷わず突き進むことを信条としてきた。自分が間違えることで取り返しのつかないことになることを知ったから。

 苗は苦笑を落とす。


「正しさって言っても難しいんだけどね。わかってもらえないこともあるし、失敗もあった。でも、正しさが為されない世界で生きていくのは嫌だから。誰かがやらなきゃいけないんだよ。だから、私がやる」

「なるほどね」


 リーフマンは無感動に相槌を打った。どこまでわかってくれたのか不明なその態度には、少し煮え切らないものを感じるのだが。

 苗は今、魔法少女としても正しさを行うべきだと活動している。しかし壁に当たり、迷ってしまっている。

 迷っている間に、取り返しがつかないことになるのはもう知っている。そんな暇はないのに心が揺らいでいる自分に腹が立ってしょうがない。


「キミの話はわかった。それで、どうするんだい?」

「決まってる。正しさを押し通す」


 リーフマンの試すような言葉に即答する。それ以外に苗にできることなんてない。

 が、リーフマンは冷静に指摘してきた。


「それが今できてないんじゃないのかい?」

「…………」

「キミに必要なものは別にあるような気もするけどね」

「何?」

「キミはそれを求めようとしていた。諦めることはないと思うよ」


 それだけを言って、話は終わりという風にリーフマンはベッドから飛んでいった。

 相棒を睨みつけるようにしながら、苗は母の言葉を思い出していた。


『あんたはもっと考えなさい』


 棘のように刺さっているこの言葉に、今のリーフマンのものも重なったように思えた。

 考えるとはなんだろうか。

 いや、と首を振る。

 考えている暇なんてない。迷わず動き続けないといけない。そうでなければ――


「とにかく、やり続けるよ。やらないで後悔なんてもうしたくはないから」

「……そうか」


 一応の返事はあったが、リーフマンの声の硬さは変わらない。苗の決意を一顧だにしないような態度にはイラついたが、これで間違っていないと信じる。

 やらないで後悔はできない。あの子のことで学んだのはそういうことではなかったのではないか。そのために、正しさを為すことに全力を尽くすことにした。これが、苗の人生だ。

 シーツをぎゅっと握りしめて、苗は内心に火を入れた。


☆☆☆


 そんな決意があっても、状況は何も変わらなかった。

 苗の求める正しさは満たされず、空回りだけが続いた。それでも、とにかく行動を――情報の収集などを続けた。成果は上がらなくても、諦めなかった。

 少しして、苗とは関係のないところで劇的な出来事が発生していた。

 夕食の席で、いつも通りにテレビのニュースを見る。最近は、前にも増してニュースは真剣に見るようになった。

 特別なニュースもないまま、夕食を食べ終えた。食器を片付けようと立ち上がったところで、母親がぽかんとつぶやいた。


「あら、なにこれ?」


 母親の言葉に素早く反応してテレビを見る。

 臨時ニュースのようだった。どこかの街の中、パニックに陥る人の声が聞こえてくる。画面がせわしなく動いて、やがて一つのものをとらえた。


「怪物?」


 信じられない思いでうめく。

 その怪物はあまりにも巨大だった。周囲にそびえたつビルにも引けを取らない巨体は、怪物というよりも怪獣と言っていいほどだ。巨大な怪物は手を振って近くの建物を破壊した。まるで特撮映画のような光景に、魔法少女である苗ですら現実の映像とは認識できなかった。


「怪物ってこんなに大きいの?」

「ううん、こんなの見たことない」


 苗がこれまで相手にしてきた怪物は、どれだけ大きくても3メートルあるかというものだった。こんな大きさのものは、話にも聞いたことはない。

 怪物はある程度暴れれば消える。だがこの巨大な怪物が暴れたら、どれほどの被害が出ると言うのだろうか。

 カメラが怪物からレポーターを映した。必死の表情でカメラに向かって叫ぶようにして言う。


『魔法少女です! 魔法少女が……!』

「魔法少女?」


 苗が口の中でつぶやく。

 カメラが再び動いた。怪物の周りに、何かが飛んでいる。比較すると虫のようなサイズだが、確かに魔法少女のようだった。巨大な怪物の手を躱して、攻撃をしている? カメラも遠く映像がブレているせいで詳しい状況がわからない。


(魔法少女が一人だけ? そんなの……)


 絶望的な気持ちでテレビに釘付けになっていると、状況が動いた。

 巨大な怪物の手に当たったか、魔法少女がボールのように吹き飛ばされた。カメラにほどちかい建物に激突して、破壊音を上げた。

 ぐっと拳を握る。無理だ、こんなの一人でどうにかできるわけがない。

 建物から魔法少女が這い出てきた。認識阻害のせいで、顔はわからない。

 魔法少女はカメラに気付いて、真っすぐに飛んできた。スピードは遅いが、キレイな飛行だ。

 魔法少女は手を伸ばした。レポーターからマイクを奪うように手に取ると、カメラに向かって語りかけた。


『かつて、魔法少女だったみんな――』

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