17話 鹿沼鵯①

 プールに浮かぶかのように空中をぼんやり漂いながら、鹿沼鵯かぬまひよどりは仰向けに空を見上げていた。

 雲の少ない空に三日月が浮かんでいる。手を伸ばせば届きそうな錯覚を覚えて、実際に手を伸ばす。当然何もない中空を手にして、だらりと手を下ろした。

 穏やかな風が吹く空で真っすぐ仰向けの状態で、両手だけが地面に向かって垂れている。鵯の灰色のロングヘアも無造作に垂れ下がっている。割とぼさぼさの髪だが、風に遊ばれたわけでもなく元々だ。

 小学六年生の割には小柄な鵯は、寝がえりでも打つように身体を反転させた。いきおい、かなりの高度から地面を眼下にすることになるがタレ目がちな目は色を変えたりはしない。


「そろそろ帰った方がいいんじゃないの?」


 声への返事の代わりに、姿勢を変えてそちらを向いた。空中であぐらをかく鵯に、相手は続ける。


「もう暗いよ。怒られる前に帰ろう」

「怒られはしないと思うよ」


 ぼんやりと言って、再び仰向けに寝転ぶ。単純にもう少し空にいたい気分だった。


「お姉さんのいうことは聞きなさい」


 冗談めかした口調の相手に視線を戻して、目を細める。少し眠たくなってきていた。

 相手は、黄色い鳥だった。アヘルという名前で、魔法少女としての鵯のパートナーだ。


「アヘルは鳥で、お姉さんじゃないよ」

「いやだから、もともとは鳥ではないし。アヘルじゃなくてアヘルネル=グラッファーレブンっていう名前があるって何度も言ってるよね?」

「鳥だし。長くて覚えられないからアヘルでいいよ」


 鵯にとって当然の理屈を述べて、また空を見上げる。

 ややあって、呆れたような吐息が聞こえた。


「疲れてないの? 怪物と戦った直後なのに」

「別に」

「ああもう、言うこと聞かないんだから」


 大げさなに嘆くアヘルに手を伸ばす。アヘルはそれこそ鳥が木の枝にとまるように鵯の指先に足をとめた。アヘルは鳥の姿こそしているが、動く時に羽を動かしたりしない。はっきり言って気味が悪いので、こうしてくれている方が良い。

 鵯は面倒を感じていたが、とりあえず言い返した。


「ボクがこうしてるのはいつものことじゃん」

「そうだけどね」


 アヘルも面倒くさそうに返してきた。それきり二人とも何も言わず、ただ風だけが流れる。


「ま、いいや。帰ろっか」


 軽く言って、プールにでも飛び込むように頭を下に向けた姿勢を取る。

 そのまま急降下する。ごう、と風を切る音が耳に心地よく、笑みが漏れた。

 あっという間に地面に近づいていく。体を回転させて足を地面に向けて、ギリギリで急停止する。

 ピタリと地面から数十センチのところで止まって、地面に着地する。


「いいよ、アヘル」


 変身状態を解かれる。この時の全身から力が抜ける感覚はいつまで経っても慣れない。ずっと変身したままでいたいのだが、さすがにそうするわけにはいかない。

 改めて、家の方向に向き直る。もっとも、鵯の目に家は映っていない。

 鵯がいるのは山の中だ。正確に言えば、鹿沼家の敷地の山だ。それほど高くも広くもないのだが、かえって鵯は幼い頃よりこの山を駆け回っていた。庭のようなもので、夜の暗闇に中でも迷う心配もない。

 木々の隙間からさす仄かな月明かりすら頼らずに山を下りていく。変身を解除するときはいつも適当に山のどこかに下りて、そこから家を目指すことにしている。

 ふぁ、と気の抜けたあくびが出た。

 アヘルをそれを目ざとく見つけて声を尖らせた。


「眠たいんでしょ。だから早く帰ろうって言ってるのに」

「飛びながら寝たっていいもん」

「……普通に落下して死ぬよ」


 さすがに呆れた様子のアヘルにふうんと気のない返事だけを返す。

 別に、死ぬことは怖いとは思わない。


☆☆☆


「ヒヨ、待ってって……ヒヨ!」


 背後の声が遠くなっていることに気が付いて、鵯は立ち止まり肩越しに振り向いた。

 鵯の友人である平尾夕ひらおゆうは息を切らせて苦情を口にした。


「速すぎるって……」


 鵯が立ち止まったことでゆっくり歩いてくる夕を見て、鵯はきょとんと首を傾げた。


「そんなに速い? いつも通りだけど」

「速いよ」


 鵯の目の前で足を止めて、夕は苦々しくうめいた。

 夕は同じクラスの男子で、幼稚園の時からの幼馴染だ。一番仲の良い友達で、幼い時から鹿沼家の裏山を駆けて遊んでいた。今でもこうして、二人で走って遊ぶことが多い。

 夕は目が細く、顔も細く、身体もどちらかと言えば細い。だが不思議と細い人物という印象はない。彼の瞳は理知的で、実際に頭もいい。勉強ができない鵯にとっては、それだけでもすごいことだと思っている。

 それだけではなく、夕の笑った時の顔が鵯は好きだった。彼の笑顔は、鵯に暖かさを感じさせるものだ。

 そんな夕は、今は疲れ切って不貞腐れたようにしているのだが。


「お腹でも痛いの?」

「なんで?」


 鵯の問いに、夕は心底不思議そうに訊き返してきた。


「いつもならこれぐらいはついてこれるじゃん」


 夕はゆったりとかぶりを振った。


「ヒヨがどんどん速くなってるんだよ」

「そうかなー」


 釈然としない。鵯にとっては完全にいつも通りだ。いつものように走っているだけなのに、なぜだか夕がついてこれていないのだ。変身しているわけでもないのだから、魔法少女のことも関係ないはずなのに。


「ちょっと休もう」


 夕はその場に座り込むのだが、鵯は立ったまま少しだけ夕の傍に寄った。

 夏休みが終わったばかりで、しかし残暑厳しくいやな暑さはまだまだ残っている。兄などはエアコンのある家からまったく出ようとしない始末だ。

 兄は忘れているのだろうかと周囲を眺める。木々が茂った山の中は思っているよりは涼しい。それを教えてくれたのは当の兄だったのだが。

 ふと、夕がこちらをじっと見つめていることに気が付いた。視線を返すと、夕はあからさまに目を逸らした。


「夕、どしたの?」

「なんでもない」


 屈んで、顔をそむけたままの夕の顔を覗き込む。顔色は悪くはないようだけど。


「なんか変だよ?」

「なんでもないってば」

「ボクにも話せないこと?」

「だから……」


 強情な夕に諦めて、立ち上がる。

 一陣の風が吹いて、鵯の髪をもてあそんでいった。手で押さえながら、木々の隙間から空を見上げる。魔法少女になってから毎日飛んでいる空なのだが、一向に飽きはこない。山を駆けるのは好きだが、なによりも焦がれるのは空だ。


「そろそろ……」


 行こうよと言いかけて、夕がまたこちらを見つめていることに気が付いた。

 鵯の視線に顔をそむける夕に、鈍い苛立ちを感じた。

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