39話 雲居巫香⑩
つぶれそうになっている車内から、巫香の身体が勢いよく車の外に飛び出す。
『わ、ぁ……っ?』
驚いて声を上げる巫香に向かってか、巫香の口から笑い声が発せられる。
「行くぞ」
『え、え……あなた、は』
「巫兎って言っただろ」
意味が分からない。巫香は混乱の極みに陥っていた。
巫兎は、巫香がノートに書いていただけの存在だ。存在というものでもなく、巫香がこうなりたいと思った理想像でしかない。
巫香の固有魔法は神降ろしであり、神でないものを降ろすなんてことは考えたこともない。
熊の怪物がうなり声をあげながら車から飛び出た巫香に顔を向ける。その右手は既にはるか巨大化していて、今にも車に振り下ろそうとしていたようだった。
目標はあくまで巫香だろう。ひときわ大きく吠え、巨大な右手を振り下ろす。
『逃げ……』
巫香の声を無視するように、巫兎は軽く笑った。
巫香の両脇に巨大な腕の魔力が生み出された。ぐっと魔力の拳を握り、振り下ろされる熊の右手を迎え撃つ。
激突した。
「重い、な」
巫兎が歯を食いしばってうめく。
生み出した魔力の拳は巫香を包み込めるほどの大きさがあるが、熊の怪物のそれは魔力の拳を握り込めるほどだ。大きさにはかなりの差があり、耐えられることすら信じられない。
だが現実として巫兎は耐えている。完全に抑え込めているわけでもなく、徐々に押されてはいるがとにかくこらえている。
『ど、どうするの!?』
「こうする」
短く答えた巫兎が右手を横に伸ばす。
その先に魔力の斧が出現した。手に握っているわけではなかったが、巫兎が投擲するように腕を振ると魔力の斧は回転しながら熊の怪物へと迫っていく。
魔力の斧が熊の怪物の右腕の根本に突き刺さる。けたたましい絶叫が熊の怪物から発せられ、巫兎はにやりと笑んだ。
巫兎の腕がもう一度振られると、魔力の斧は熊の怪物の右腕を突き抜けた。切断された右腕から圧力が消え、瞬時に元の大きさに戻った。
巫兎は魔力の拳でそれを握り潰し、見せつけるようにぐちゃぐちゃになった熊の怪物の腕をぽいと放り投げる。
効果はてきめんで、熊の怪物は怒り狂った咆哮をあたりに響き渡らせた。
巫香はそれを耳にしただけでびくりと身をすくませる思いだったが、巫兎は気にした様子もなく微笑んですら見せた。
「あんなのただの脅しだから、怯むことないよ」
『そんなこと言っても、怖いものは怖いよ……』
「怖くないよ。私より弱いやつなんて」
巫兎の言葉を理解したかのように熊の怪物は凶暴な目つきで睨みつけてくる。
と、視界が黒に染まった。それは一瞬のことで、元に戻ったと思えば熊の怪物の姿がどこにもない。
あれ、と巫香が思うよりも早く巫兎は鋭く上を見上げた。
空中に熊の怪物がいた。浮いているわけではなく、落下している……多分。
混乱する巫香に、巫兎が開設した。
「足を巨大化させて、すぐに元に戻した。体が基準になるんだろ。だからあそこにいる」
『そ、そっか……』
なんとなくで頷く。正直なところ、言っていることは漠然としか理解できていない。もしほかの人に説明しろと言われたらきっとできないだろう。
状況についていく頭の回転がないことも、巫香の欠点の一つだ。
「それぐらいわかってるだろ」
『?』
巫兎のぼやきに首をかしげる。
どういう意味か訊こうか迷っている間に、巫兎は真上に飛行した。
熊の怪物が、また巨大化を使用する。あっという間に視界を埋めるのは、巨大化した足だろう。空中に移動したのは、上からの踏み付けのためか。
避けるのも迎撃するのも間に合わない。
巫香はそう思ったが、巫兎はすぐさま横に移動した。すさまじい速度で空中を駆け、巨大化された足を避けきった。
すれ違う風圧を間近に感じながら、巫香は困惑交じりの驚きをあらわにしていた。
この速度は、ミロミコトのものかそれ以上だ。そもそも、魔力の拳も斧も他の神を降ろしたときに使える技だ。
巫兎を降ろせているのも意味が分からないが、他の神の技を使えているのが一番意味が分からない。
思考が固まる巫香とは対照的に、巫兎の動きにはわずかな停止も迷いもない。
巫兎の手には、いつの間にか魔力の剣が握られていた。
『カラナギの――』
巫香が降ろせる神の一人、カラナギ。
その能力は、
「はっ!」
巫兎が鋭い呼気とともに自分を抱くような姿勢で体を回転させる。
右腕をしなるような動きで振る。まるで舞うような動きに、自分とは一番遠いものを感じてしまう。
カラナギの能力は、長さを自在に変えられる剣。
その剣は、熊の怪物の巨大化された足をまさしく両断した。
切断された足は元の大きさに戻りながら地面に落ちていく。それには一瞥もくれず、魔力の剣を手に熊の怪物へと飛ぶ。
あっという間に接敵する中、熊の怪物を目が合う。
はっきりとした恐怖が浮かんでいるのが、巫香の目にも映った。
それも一瞬のことで、熊の怪物の姿が膨張し始めた。また巨大化による攻撃を仕掛けてくるつもりか。
「遅い」
短く告げて、魔力の剣を振るう。
熊の怪物の巨大化は止まり、元の大きさに戻りその体は左右に分かたれる。
真上に振り上げた魔力の剣は熊の怪物の身体を正確に真っ二つにしていた。
左右の熊の怪物の身体が、それぞれほつれるようにして空中に霧散していく。
『終わっ、た……?』
「そうだな」
巫兎が魔力の剣を消し、地面に降下していく。途中で願いの力が入ってくる感覚を得て、戦いが終わったことをようやく実感できた。
地面に足をつけた巫兎は、周囲を見回した。破壊された車が散乱しているが、人的被害は一人もない、はずだ。
「直すぞ」
アイピーに呼びかけて、周囲の戦闘痕をすべて直す。
願いの力を行使すると、車はすべて元通りになっていた。ひっくり返っていた車も、願いの力でまっすぐに戻っている。
戦闘が終わり、棚上げしていた混乱がどっと巫香の頭に押し寄せた。
訳のわからないまま、自分の身体を動かしている人物に呼びかける。
『えっと、え……? 巫兎……?』
「一人で帰れるな」
『え?』
巫香の呼びかけを無視するように巫兎が一方的に言うと、身体の操縦権が戻った。
いきなり体の感覚が戻ったことで、立ち眩みのようなものを感じてふらつく。なんとか立ったまま、傍らのアイピーに目を向ける。
アイピーが顔をしかめ、巫香を見返していた。
「アイピー、みか、何もわからないんだけど……」
「…………」
「今のは巫兎だった。みかの魔法って、神様を降ろすやつだし、巫兎は神様じゃなくて、ええと……」
「そうじゃないかとは思ってたけど、これではっきりとした」
アイピーまでも巫香を無視するように話を進める。
混乱が収まらないままアイピーの言葉を待つ。巫香だけでは、考えたってなにもわからない。
アイピーは硬い表情と声で、巫香の知りたい答えを告げた。
「巫香の固有魔法は、そもそも神降ろしじゃない」
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