42話 雲居巫香⑬
飛行している。
この感覚はさんざん味わってきたはずなのに、全身に違和感がまとわりついていて気持ちが悪い。これまでの神降ろしの時には肉体の感覚は薄くなっていたので、それに慣れてしまっていたのだろう。
その時と比べるまでもなく、巫香の飛行はひどく遅い。夢の中で走っているような、そんな鈍さを感じる。
飛行の速度とは逆に焦りはひどくなっていく。どれだけ念じてもいつものスピードが出ることはなく、頭の中ははちきれそうなほどの焦りで満ちていく。
(速く、速く――!)
公園はまだ見えないが、そこにいるはずの巫琴を思い描く。
怪物はどうしているだろうか。巫香の知る怪物は、巫香を認めるとすぐに猛々しく攻撃をしてくる存在だ。巫琴たちは普通の女の子で、怪物に攻撃などされたらひとたまりもない。
「……多分無事だと思う」
巫香の横で、アイピーがぽつりと言う。
アイピーの方に首を向けるが、それだけでバランスを崩しそうになった。慌てて姿勢を戻し、正面を向いたまま訊ねる。
「本当!?」
「電話に出る余裕があったなら無事でしょう。身を潜めておとなしくしている限りは襲われたりはしないはず」
「でも怪物が暴れてたら……」
巫香の不安に、アイピーは重く返答した。
「そう思うなら急ぎなさい」
「急いでるよ……!」
不平に声を荒らげる。神降ろしした時のような速度にはまったく届かないが、これが巫香の全力だ。
巫香が一番焦っているのに、そんなことを言うアイピーが信じられなかった。正直なところ、こうやって飛べているだけでも今までの巫香にはできなかったはずだ。褒めてとまでは言えないが、急かされてもこれ以上はどうしようもない。
やがて現場に到着する。
フェンスに覆われていて入口が一つしかない小さな公園だ。巫香も何度か遊びに来たことはあるところだ。その時は巫琴と一緒だった。今となっては遠い記憶だ。
「巫琴……!」
巫琴は無事だろうか。その姿を探す巫香の目に、公園の入り口に鎮座する怪物が映った。
巫香と同じぐらいの背丈で人型だったが、全身が冗談のように真っ黒で凹凸のない光沢を持っているせいで一目で怪物と知れる。
まるでオブジェのように入口に立っている。身動き一つとらないが、あんなものがいれば公園の出入りなんてできるわけがない。ひとまずそれは無視して、視線を動かす。
公園の奥に人影が見えて、心臓がどくんと跳ねた。
巫琴と、友達だろう同い年ぐらいの女子が二人。身を寄せ合うようにしていて、全員無事のようだった。
ほっとする巫香の耳に、金属を擦り合わせるような嫌な音が響いた。顔をしかめて耳を押さえる巫香に、アイピーの声がわずかに届いた。
「怪物を!」
「……う、うん」
小さく返事をして、怪物に向き直る。
怪物は凹凸のない顔を巫香に向けていた。表情はないが、とてつもなく嫌なものを感じて背筋が震える。
戦うには、武器が必要だ。飛行はなんとかできたが、魔力の武器化は試してすらいない。
できる気がしない、という弱気を抑え込めないまま魔力の武器化を実行する。
(えっと……ミロミコトのような斧!)
念じて意識を集中させる。ノートのミロミコトのページには斧のイラストも描いているので、イメージは詳細に浮かんでいる。
生み出すのにも時間がかかる。その間にも怪物は金属を擦り合わせるような音を出して威嚇――だろうか――してきている。
やがて、巫香の手に魔力が形を成した。だがそれは明らかに斧の形をしておらず、何に見えるかと訊かれたとすれば誰にも答えようのないぐにゃぐにゃとしたなにかだった。一応柄はあり、それを掴めている。
かろうじて生み出したそれを手に、怪物に向かって飛行する。
振りかざし、怪物に魔力の塊を投げつけた。怪物はすいと横に動いてそれを躱す。魔力は地面に激突し、砂埃を舞わせた。
巫香は公園の中に着地する。すぐさまに振り返り、巫琴たちを探した。
全員が一様に怯えていたが、その中で巫琴だけがほかの二人を庇うようにして前に位置していた。いつも巫香に向ける眼差しは怒りと苛立ちを含んだものだったが、今は怯えに揺れている中に真っすぐなものも見えた。
巫香と違って、巫琴はちゃんとしていると少し安心できた。
「逃げて」
声を投げて、怪物に向き直る。
怪物は不自然な角度で首を傾けながらのそりとこちらへ向かってきていた。巫香に注意が向いているなら、その間に巫琴たちは逃げられる。
あとは……どうやって斃すかだ。
怪物はゆったりとした動きから一転して、ぴょんと軽やかにジャンプをした。空中で身体をひねり腕を背に回すのを、動画でも見るような気持ちで眺める。
怪物は巫香の目の前に着地して、ねじった身体を戻しながら鞭のように腕を振るった。
「巫香!」
「う、わっ」
アイピーの怒声に我に返った。
避けなきゃと思うのだがうまく体が動かせず、足がもつれてその場にすとんと転ぶ。
結果的にはそれが幸いした。巫香の頭上を怪物の腕が風切り音を立てて通り過ぎていく。冷や汗を感じながら、咄嗟に目の前の足を蹴りつけた。蹴ったというよりただぶつけただけになったが、バランスを崩した怪物が後方にたたらを踏む。
立ち上がりながら再度後方を確認する。巫琴たちはさらに端の方に逃げ込んでいる。怪物がわずかに移動したので走れば公園から逃げ出せるかもしれないが、まだ十分に安全とは言えない距離だ。
斃すか――少なくとも吹き飛ばすなりして場所を空けさせなければいけない。
怪物は先ほどとは逆の方向に首を傾けてまるで観察でもするように巫香をじっと見ている。目がないので、巫香がそう感じるというだけだが。
(斧……斧……)
内心で呪文のように繰り返す。先ほどのはとても斧とはいえない出来だったが、それでも今までできなかった魔力の武器化には成功していた。あれでもぶつければ怪物にダメージを与えられるはずだ。
魔力を形にする。今度は十分にイメージを固めたはずだったが、同じようなぐにゃぐにゃができあがっただけだった。それでもやるだけだと開き直り、魔力を横薙ぎに振りぬいた。
斧が怪物を通り抜けた――ように感じられた。何の手ごたえもなく、ただ腕を振りぬいた姿勢で瞠目する。
怪物は腕で防御する姿勢をとっている。斧は怪物の腕に当たり、何の傷を与えることなく霧散していた。魔力の強度が低いのか、怪物が頑丈なのか――たぶん両方の理由で怪物にダメージを与えることができなかったのだ。
通じない、と無力感が溢れてくる。巫香が生み出す魔力は触れれば砕ける程度のものでしかない。
腕を振りぬいた勢いで、巫香は体勢を崩していた。その隙を逃さず、怪物が蹴り上げる。
怪物の蹴りは巫香の腰に当たり、巫香はなすすべなく吹き飛んでいく。がしゃん、とフェンスに激突して止まり、痛みにあえぐ。
「あ、ぐ……」
蹴られたところが熱く、意味が分からないぐらい痛い。もう嫌だと泣いてしまいたい。
それでも、そんなことはできない。ここには、巫香が一人だけではない。
フェンスを掴んでよろよろと立ち上がる。歯の根があわずにがちがちと鳴っている。怖い。今までの戦闘ではまったく感じなかった感情だ。巫香ではなく、降ろした神が戦っている間は自分が戦っているという感覚すらなかった。こうまで戦いに現実感があるのは、これが初めてだ。
「だいじょう……ぶ?」
横から声がして、呆然とそちらを向く。
巫琴だった。巫香は三人のそばに吹き飛ばされたようで、固まっている三人のうち巫琴が声をかけてきていた。
何も言えなかった。巫琴が向ける眼差しはいつも巫香に向けられるものとはまったく違う。巫香には厳しいが、優しい子だというのがわかる。
「巫香!」
この声はアイピーだ。
ぼーっとしている場合ではない、と怪物に視線を戻す。
怪物はまたジャンプをしていた。同じ攻撃をしてくるつもりだろうか、それならば今度はちゃんと躱せるはず。
そんな巫香の目論見は、怪物が着地した場所をもって裏切られた。
怪物は巫香ではなく、巫琴たちの正面に着地していた。振るう腕も、巫琴たちに向けられている。
「え?」
「巫琴!」
呆けたように怪物を見上げる巫琴に抱き着くようにして、怪物の攻撃から庇う。
怪物の拳は巫香の脇腹を激しく打ち据えた。肺から空気が絞り出され、抱き着いた巫琴ごとすぐ傍のフェンスに吹き飛ばされる。
「み、こと……だいじょう、ぶ?」
うまく息ができないまま腕の中の巫琴を見る。
泣きそうになっているが、攻撃は巫香が受けたので怪我などはないはずだ。
怪物は淡々と巫香を眺めるようにしている。目が合った――かと思うと腕を振り上げた。
「こ、のっ!」
生み出した魔力を足元に投げつけると、怪物は軽く後ろに跳んであっさりと避けた。
距離がとれたならそれでいい、首だけで振り返って巫琴に告げる。
「怪我、ないよね」
再度の確認に、巫琴はこくこくと頷いた。他の二人もひどく怯えているが、無事のようだ。
安心すると、自然と笑みが浮かんだ。そんな動きだけでも打たれた脇腹に痛みが跳ねる。身体を折るが、倒れはしない。
「なんとかするから、逃げて」
それだけを告げて、怪物をキッと睨みつける。
ひどい痛みが身体を苛んでいるが、些細なことに思えた。それより大きい怒りが巫香の頭を沸騰させていた。こんなに怒りを覚えたことなど、人生で多分初めてだ。
「許せない……」
自分でも持て余す激情を抱えることなく外へと解き放つ。
「巫琴は歌手になるの。みかなんかよりすごく頑張ってて、傷つけられていいわけない。そんな巫琴を殴ろうとしたなんて絶対に許さない!」
怒りのまま、魔力を形作る。
斧を携えて、巫香の方から怪物へ一歩を踏み出した。
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