36話 雲居巫香⑦
巫琴の部屋の前でノックする体勢のまま固まっていた巫香は、ゆっくりと手を降ろした。視線もそのまま床に落として、細く溜息をついた。
「……無理」
小さくうめいて踵を返そうとした巫香は、しばらくためらってまた巫琴の部屋に向かい合った。巫香の目には扉は分厚く堅牢で、全ての侵入を阻むかのようだった。もちろんただの扉で、巫香の部屋のそれと変わるわけでもない。
わかっていても、巫香の心はとても重たかった。巫琴の部屋の前でもう何分もこうして動けないままだった。
『今から、巫琴と話してきなさい』
そういったアイピーは、呆ける巫香に言い足した。
『巫香は人と話した方がいいけど、緊張するでしょ? 妹ならまだ少しは話しやすいと思う』
『で、でも……』
『そんなに仲良くはないみたいだけど、昔からそうだったの?』
『…………』
どうだろう、と思い返す。昔、二人がもっと幼かったころはもう少し普通に話していたような気がする。
特別な何かがあったわけではない。巫香としては、巫琴が成長する過程で巫香がどれだけダメなのかを見抜くようになってしまったというのが推論だった。
うなだれる巫香に、アイピーは軽い溜息交じりで言ってきた。
『巫琴と仲良くしたくはないの?』
『……できたらいいなって思うけど』
『だったら話すしかない』
突き放すような言い方に、思わず泣きそうになりながらアイピーを見返す。
アイピーは姿こそ猫だが、仕草や表情はかなり人間のそれに近い。短くはない付き合いで、巫香もそれなりに表情を読み取れるようになっていた。
これは叱っているときの顔だ。巫香がちゃんとできていないと思っているために、アイピーはこんな表情をしているのだ。
こうなるとアイピーも譲らない。いつもだったらベッドに横になってやり過ごしたりするのだが。
『………………話して、みる』
『うん』
『アイピーも、そばにいてくれる?』
『……一人で行ってきなさい』
にべもない拒否にまた泣きそうになったが、仕方ないと受け入れることにした。
そういうわけで巫琴を訪ねに来たのだが、ノックすらできないままこうして立ち続けている。
中からは小さく音楽が漏れ聞こえてくる。歌声がいやにキレイで、耳に心地よかった。
耳を澄ませて歌声に聞き入っていると、不意にそれらが停止した。と、部屋の扉が開いた。
「あ」
反応するより早く、開いた扉が巫香の顔にぶつかった。
痛む顔面をおさえてうずくまっていると、巫琴の冷たい声がかけられた。
「なにやってんの?」
「えっと……巫琴と話そう思って」
「そうなんだ」
鼻を押さえながら、巫琴の表情をうかがう。いつも通り怒っているようにも見えるが、困っているようにも見えた。
少しそのままでいて、じれったそうに巫琴が目を細める。
「話すんじゃないの?」
「……中に入ったらダメなの?」
「そうじゃないけど」
ぶっきらぼうに応じてはいるものの入れてはくれるようだった。ほっとしながら、部屋の中に入る。
巫琴の部屋に入るのは久しぶりだった。記憶にあるものとはすっかり様変わりしていて、初めて来たかのような心地を味わう。ベッドの傍にあるぬいぐるみも見たことがないし、本棚にある本も同じだ。
どんな本があるんだろうと覗こうとすると、巫琴に顔を掴まれた。
間近ににらみつけるようにされて、困惑に泣きそうになる。
「まあ、大丈夫だね」
「……なにが?」
「それで、話ってなに?」
巫香の疑問には答えず、巫琴は独りベッドに座った。巫香は立ったままだが、何も言われていないのでそのままでいることにした。
巫琴のイライラとした視線にさらされて、何もしゃべれなくなっている自分を悟っていた。話してこいと言われたものの、何を話せばいいのかがまったくわからないで来てしまった。話に来たのだから、巫香の方から何か言わなければいけないのはわかっているが。
黙ったままでいると、巫琴の顔の険しさがどんどん深くなっていく。その圧力に怯む気持ちをなんとかおさえて、必死に言葉を探す。
「……魔法少女」
「は?」
「魔法少女、って色々あったけど、どう思う?」
巫琴は巫香のことをじーっと見つめ、吐き捨てるように応じた。
「なにそれ、そんな話をしにきたわけ?」
「えっと……」
思った以上に強い反発が来て、二の句が継げなくなる。
巫琴は勢いづいたようにますます語気を荒くした。
「大体さ、巫香はやる気あるの?」
「え?」
「家のことだってさ、全然ちゃんとできてないじゃん。手伝いとかやるって言ってても結局ダメでわたしがやることになってさ。私だってやりたいことあるのにさ!」
「……やりたいこと?」
疑問に首を傾げると、巫琴はしまったという風に顔をしかめて口を噤んだ。
巫琴が黙ってしまったので、巫香の方からそっと訊いてみる。
「やりたいことってなに?」
「…………」
巫香の問いにも、巫琴は唇を引き結んで横を向いている。
「巫琴?」
困りながらも呼びかける。しかし巫琴は反応を見せない。
相手が応じてくれなくなってしまったら、もうどうしようもない。それ以上にかける言葉も見つけられずに、部屋の中に視線を彷徨わせる。
もうある程度は話したつもりではいたが、巫琴の話が気になっていた。
普段話すことができないので、巫琴がなにかやりたいことがあるというのは知らないままだった。
と、本棚の中に目を留めた。何冊か並んでいた本は、同じテーマのもののようだ。
「歌……?」
「っ!」
巫香のつぶやきに巫琴が反応した。ベッドから降りて、巫香と本棚の間に立って両手を広げる。
「見ないでよ!」
「ご、ごめん……」
謝りながら、一つの心当たりが思い出されていた。
部屋に入る前に聞こえていた歌声。あれは巫琴のものではなかったのだろうか。
「……巫琴、歌ってた?」
「…………」
「キレイな声、だったね」
巫香の言葉に、巫琴の顔が一瞬で真っ赤に染まった。睨みつけるような眼差しに、あまり力が感じられない。
ややあって、巫琴が小さくつぶやいた。
「……歌手になりたいの」
「歌手って、あの歌手?」
「ほかにどんな歌手があるの」
ぶっきらぼうな口調だが、険をあまり感じなかった。真っ赤な顔から、照れているというのはさすがにわかった。
そっか、と妙にしっくりくる思いで笑んだ。
「巫琴は歌上手だもんね」
手を打って言うのだが、ふと引っかかる感覚があった。
(あれ?)
内心で首を傾げるのだが、わからずにすぐに投げ出す。
巫琴は複雑そうな表情で、わずかに視線をそらしている。
知らなかった巫琴のやりたいことだが、素直にすごいなと思った。巫香自身はやりたいことなどなにもなく、考えたこともない。
巫琴が苛立つのもわかった気がした。巫琴は歌の練習をしたくても、手伝いをする巫香の手伝いをするようにと両親に言われてしまうのだ。
巫香が、しっかりしないといけない。
巫琴、と妹を呼ぶ。
「みか、もっと頑張るね。巫琴が安心して頑張れるように」
巫香なりにそれなりに勇気のいる言葉だったが、返ってきたのはまたもじとっとした眼差しだった。
「それでいいわけ?」
「……なにが?」
質問の意図を掴めずに訊き返す。いきなり風向きが変わったかのように思えたが、なにが悪かったのかもわからない。
巫琴の眼差しの険は、ほとんど元のところまで戻っていた。
「巫香はやりたいこととか、なんかないの?」
「……うん、別に」
「神社の手伝いも好きでやってるわけじゃないでしょ」
「……好きかどうかはわかんないけど」
巫琴が何の話をしているのか見失いそうになりながらも、なんとか答える。
「お手伝いは平気だよ。みかができるのって少しのことだけだけど、それで役に立てるならいいよ?」
「なにそれ」
巫琴の声が、表情と同じ硬さを帯びた。
あ、と気付く。嫌だが、自分に向けられる目で特に見慣れたものだった。
巫琴はもうずっと、つまらないものを見る目で巫香のことを見る。
はぁ、と面倒そうに嘆息して巫琴は扉を指さした。
「もういいよ。出てって」
「え、でも……」
「練習するから」
「あ、うん。ごめん……」
そう言われると居続けることもできない。巫琴の冷たい目に追い出されるようにして、部屋から出ていく。
「あの、巫琴……?」
部屋の外で振り返って何かを言おうとしたのだが、巫琴と目が合って何も言えなくなってしまった。
巫琴は目を合わせたままわずかな間を空けて、扉を強めにばたんと閉めた。
少しの間動けずにいた巫香は、やがてとぼとぼと自室に戻っていった。
「……やっぱり無理じゃん」
自分自身への失望も慣れきっている。
だからといって失敗に心が軋まないわけでもなく、巫香は自室に戻る前に目を拭った。
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