30話 雲居巫香①

 乳白色の湯に身を沈めたまま、長く息を吐く。身体から空気が抜けていき、どこまでも沈んでいけそうな気がする。

 実際には湯舟の中に座っているので、それ以上の底はない。

 口までお湯の中に入れて、そっと目を閉じる。鼻でゆっくり息をして、なんとなくの息苦しさにやっぱり顔を全部出して大きく呼吸した。


「ちゃんと聞いてるの?」


 叱責するような声に、肩を縮めてそちらに目を向ける。

 湯気のこもった浴室の中、正面の湯舟の縁にちょこんと白い猫が腕を組んでいる。まるで人間のような仕草が面白いが、笑ったりすれば余計に怒られそうなので黙っておく。

 余計に、とはいうが今は怒られているわけではない。この相棒には叱られることが多いので、なんでもない話でも叱られているように感じてしまうことがある。

 怒られているわけではないが、なんでもない話をしているわけでもない。


「大変なことになっているの。それはわかってるの?」

「……わかってる、と思う」


 雲居巫香くもいみかは自信なくつぶやいて再び顔半分を沈めた。

 巫香の白い長髪がまとめられることなく湯舟に広がっている。さっきまでしっかりと洗った髪だが、特に構わずに湯舟に浮かべたままだ。

 小学六年生になって半年で、それはそのまま巫香が魔法少女になってからの時間に相当する。幾度かは怪物との戦闘も経て、魔法少女としての生活にも少しは慣れてきた。やたらと人間くさい白い猫――もともとは人間みたいだが巫香はすぐにそれを忘れる――と接することもほんの少しだけは慣れていた。

 白い猫――アイピーは、じとっとした半眼を巫香に向けて訊ねる。


「じゃあ、言ってみなさい」

「…………」


 巫香はアイピーが苦手だ。嫌いというわけではない。口うるさく普段から細々と巫香のミスをしてきて、褒められたことなど一度もない。わかっている、巫香は魔法少女としてはあまりにも能力が低い。曲がりなりにも戦えているのは固有魔法の力があるからで、巫香自身の力で戦っているわけではない。

 性格も引っ込み思案で、うまくできることなんか一つもない。自信を持てとよく言ってくるのも嫌だ。こんな程度の自分で、どうやって自信を持てというのだろう。

 きっと怒っているんだろう、と巫香は思っている。他にもたくさんいる魔法少女のうち、巫香は明らかなハズレに違いない。巫香だって、せっかくの相棒となる魔法少女が巫香だったらとても嫌だと思う。

 だからといって、巫香にはどうしようもないことだ。

 アイピーの眼差しは変わらない。巫香が答えられないまま逃れようとしているのをわかっていてそうしているのだ。だから巫香は、なんとかして絞り出さなくてはいけない。

 しばらく黙って、ようやくアイピーに答えを口にした。


「……いっぱい、人が死んじゃった」

「そうね」


 アイピーはそう頷いて、変わらぬ眼差しを巫香に注いだままでいる。まだ続きがあるだろうと、そう促しているのだ。

 巫香は頭全部を湯舟に沈めたくなった。逃げ場所はどこにもない。仮に風呂を出たところで、アイピーはずっとついて回るのだから。


(いっぱい人が死んじゃったのは、大変なことなのに)


 魔法少女が怪物ごと旅客機を撃墜したニュースが流れたのは、三日前のことだった。かなりの大事になっているのはテレビを見ているだけでも伝わってきたし、学校でもその話で持ちきりになっていた。

 大変なことになっているのはわかっている。こんなに騒がれているのだ。それに乗客が全員死亡したというのはとても悲しいことで、関係者がいるわけでもない巫香でも悲しい気持ちになる。

 しかしアイピーはそんな答えでは満足しないようだった。頭をひねっても浮かばないまま、別のことを口にした。


「……のぼせちゃうよ」


 巫香の言葉に、アイピーはこれ見よがしな溜息を吐いた。


「そうね、続きはあがったあとにしましょう」

「うん」


 言って、アイピーも湯舟の中にそっと入ってきた。仰向けになり、湯の上で浮遊しているように浮いている。


「アイピー」

「なに?」

「……肩まで浸かったら気持ちいいんじゃない?」


 返事は冷たい一睨みだったので、目を伏せてできるだけ深く湯に浸かる。

 のぼせちゃう、と言ったのはもちろん嘘で、普段巫香はかなり長風呂だ。アイピーもそんなことはわかっているのに違いないので、見逃してくれた、というよりは先延ばしにしてくれたのだろう。

 アイピーは気持ちよさそうにぷかぷかと浮いている。こうして黙ってくれていれば可愛いと思えるのに、風呂を出ればまたアイピーの教育という圧が待っていると思うと一生風呂に入っていたいとすら思う。


「巫香、いつまで入ってんの!? いい加減にしてよ」


 眠っていたわけではなかったが、たたき起こされたような感覚で立ち上がる。足を滑らせて、浮いていたアイピーの身体を掴んで湯の底に沈めてしまった。


「ご、ごめんアイピー!」

「なにやってんの? 早く出てよ」

「う、うん。すぐ上がるから待ってて!」


 痺れを切らせた妹の巫琴みことが脱衣所から声をかけてきていた。巫琴は「まったく」と吐き捨てながら脱衣所から出ていった。

 それを確かめて、ふぅと吐息する。さすがにもう風呂に入っているというわけにはいかないだろう。

 足を滑らせた体勢のまま、ゆっくり呼吸する。どうしてだか湯舟の底についた手がいやにうごめいている。それに、何か聞こえるような気がする。巫琴が戻ってきたのか……

 と、湯舟の底で巫香に押さえつけられてばたばたと暴れるアイピーが目に入った。


「わ、ごめん!」


 慌ててアイピーを解放すると、アイピーはざばぁと一気に湯舟から飛び出した。ぷるぷると身体を振ると、息を乱して巫香を睨みつける。

 巫香は後ずさったが、逃げられるスペースなどなくすぐに背中が壁についた。

 アイピーは息を吸い込み、思い切り怒鳴り声を上げた。


「この、馬鹿!!」


 巫香にしか聞こえない怒声が響き渡り、巫香はうずくまって「ごめんなさい!」と謝り倒した。

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