49話 戸塚みい②

「――やっ!」


 拳をサンドバッグにたたきつける。ぼすん、というやや気の抜けた音を耳に、もう一度拳を叩きこむ。

 右足を後ろに引き、腰を回して全力の蹴りを打ち込む。

 様々な打撃をサンドバッグ相手に打ち込み続ける。少しして、ぎっぎっとかすかに揺れるサンドバッグを前に荒れた息を整える。呼吸が落ち着くと、部屋を出てリビングへ向かった。

 戸塚家は、一般的な二階建ての一戸建てだ。みいはここに父親と二人で暮らしている。大きい家というわけではないが、二人で暮らすにはやや持て余す家で掃除も大変と言えば大変だ。

 四年前、みいが八歳の時に両親が離婚した。原因は両親ともに明確に口にはしなかったが、離婚の前に言い争うのをこっそり聞いた限りでは母の不倫が原因であるようだった。

 父も母もみいを引き取ることを主張していたが、みいは迷わずに父を選んだ。元々父親のことを好きだったが、母を嫌っていたわけではない。だが、父親を裏切った母を許すことはできなかった。顔を見るだけでひどい嫌悪感を感じる。

 母が家を出ていき、父娘二人きりの生活が始まった。

 今住んでいるこの家は、その時からのものだ。離婚当初は母の面影がちらつく家にいるのは嫌だったが、どうしてだか父はこの家で暮らし続けることを選んだ。父がそう決めたのならとみいは何も言わなかった。四年の間に母を思い起こさせるものを少しずつ処分していき、快適な家を作り上げた。

 父は仕事も家事も頑張ろうとしたが、明らかに不慣れですぐに調子を崩した。夫婦が揃っていた時も、要領の良くない父を母が押しのけて家事を行っているのをよく見ていたので仕方ないとも思ったが。

 仕事で普段は家にいない父の分まで、みいは積極的に家事をこなした。面倒に思うようなこともあるが、基本的には喜んでやっている。父は家事はしないで好きに遊んでいいと言うのだが、父の役に立てると思えば苦にも感じなかった。

 母がいなくなったのなら、父を支えるのは自分の役目だから。

 最初は要領もつかめずに不慣れな父よりもひどい有様だったが、次第に慣れてきてこなせるようになり特に料理の腕前が上がってきた。

 休日には外食に行くことが多い。いろんなラーメン屋を巡るのが父とみい共通の楽しみであり、父といられる時間はみいにとって幸せだった。

 父は優しく、普段からみいのことを気にかけ、みいの話もよく聞いてくれる。何かにつけてなにかしら買い与えようとしてくるのだけは少し困っているが、みいはそんな優しい父が大好きだ。友人にはファザコンと言われるが、親を好きで何が悪い。

 みいはあまり欲しいものというのはない。というのもインターネットがつながったパソコンさえあれば、みいが求める娯楽は大体どうにでもなるからだが。欲しいものというのなら、父ともっと一緒にいたいということだけだ。仕事で忙しい父を困らせるだけなので、口にはしていない。

 サンドバッグが父にねだって買ってもらった数少ないものだ。買うことよりも、本当にこれが欲しいのかとストレスを心配された。ストレスは父がいれば回復するが、それに頼りきりにならないようにと思ったものだ。買ってもらってからはサンドバッグの叩き方の動画を見て真似をすることが日課になった。

 半年前に魔法少女なったのも、父が影響している。報道される魔法少女に父が関心を示していたからだ。だからといって父に自分が魔法少女であるとなどはいくらなんでも話していないが。

 軽い気持ちで始めた魔法少女だが、なってみると非常に大変だった。なにしろ普段は家事もあり勉強もあるし、なんなら趣味だって楽しみたい。そんな中訓練や戦闘をこなしてきた。

 大変なことばかりの魔法少女だが、良いことがなかったわけでもない。怪物を斃すことで蓄積される願いの力を、父の疲労回復に使えているからだ。他人に作用させるのは自分に同じことをするより莫大な量が必要になるので、実際には多少楽になるかもしれないという程度のようだが、効果が低くても父のために何かをしたかった。

 しかし、それももう終わりにすると決めた。

 沈む気持ちで夕食の準備に取り掛かる。ほとんど無意識で身体を動かしながら、学校で見聞きしたことを思い返す。

 学校でもやはり旅客機の件についての話でもちきりだった。ゴシップとしてとらえ不謹慎にはしゃいでいる声もあったが、魔法少女を批判する人は多かった。

 そうなるとやはりこの街の魔法少女――みいのことにも話題が及ぶ。これからどうするのだろうという憶測があちこちから聞こえ、この街の魔法少女こそが旅客機を堕とした犯人であるという意見も聞こえた。

 それが誤りであることはみいが一番わかっているので、そんな話が聞こえてきてもみいに動揺はなかった。

 魔法少女に関する情報については、何も知らないクラスメイトも魔法少女であるみいもそれほど差がないというのが実際だ。

 この世界には現在110人の魔法少女が存在する。その110人が日本に何人いるかもみいだって知らない。そもそも他の魔法少女なんて一人だって知らない。下手な接触はみい自身避けてきたし、今回のことでリスクは増したとも考えている。

 熱心に魔法少女の情報を追っている有志が立ち上げたサイトには、魔法少女を『〇〇の魔法少女』と表記している。〇〇にはそれぞれ魔法少女が武器化した魔力の形状が入る。たとえば、剣の魔法少女というように。

 魔法少女は魔力の武器化に多くのパターンを持たない。そうしたことから魔法少女の特徴は武器化された魔力によることになり、根気よくインターネット上の情報をあさって作り上げられたデータベースには様々な魔法少女とその活動地域が載っている。とはいえ110人全員が載っているわけではない。

 旅客機での魔法少女は槍を使用していたことから、槍の魔法少女と呼称されることになった。だが槍の魔法少女は世界各地に何人か存在している。みいからすれば槍はイメージしやすく扱いやすいから被ったのだろうと思うだけだが、サイトでは同一人物説もある。

 だが、これまで日本には槍の魔法少女は目撃されてこなかった。このために国外の魔法少女であるという話も出ているが――


「別になんだっていいけど」


 独り言ちて、包丁を放るように流しに置いた。からん、という音にかすかに眉をしかめる。

 みいにとって、件の魔法少女の正体などどうでもいい。今の生活を守ることより、大事なことはない。

 これまでの怪物による死者数は、公式な発表によると18人だそうだ。怪物が発生してから半年以上が経過しているので、2週間に一人かそれ以下ぐらいだろうか。平均をとるとそうなるが、死者のほとんどは怪物の発生が始まった初期のものだ。怪物に不用意に近づいてしまった結果らしい。

 単純な怪我人は今でもそれなりに発生する。重症まで行くケースはほとんどなく、大半が軽傷で済む。怪物が発生した当初は怪我人の数も発表されていたが、今では死者が出ない限りは怪物の発生を知らせる報道だけだ。

 怪物は広い範囲を移動することはほとんどないので避難はしやすく、魔法少女が来てすぐに斃してしまう。そのサイクルに人々はあっという間に慣れていった。怪物によって生まれる犠牲は痛ましいことだが、言ってしまえば交通事故の方がもっと人が死んでいる。

 しかし、今回のことですべてが吹き飛んでしまった。怪物ではなく、魔法少女による犠牲が出た。状況的にどうだったとかはきっと関係ない。あの映像のインパクトは、魔法少女に敵対心を植え付けるには十分すぎる。

 魔法少女が沈黙を保つ限り、犯人捜しは続くはずだ。


(犯人捜し――か)


 背筋がぞくりと震えた。脳裏に浮かぶ言葉を振り払うように頭を振る。

 そんなことは考えてもしょうがない。みいは犯人ではないし、犯人を捜したところでどうしようもない。まさか当の本人が名乗り出ることもないだろうし、静観以外の選択肢はない。

 料理に集中する。今日は父の好物を作る。父は肉が好きだが、健康のための野菜なども父が食べやすいように作ってあげたい――


「みい」


 不意の声は、デュベルのものだ。

 手を止めてデュベルを探す。少し離れたところでみいの目の高さで浮いていた。

 デュベルが浮いているのを見る度にどうにもシュールだなと思わされる。蟹が宙に浮いている絵面はいまだに慣れることができない。


(他の魔法少女はどんななのかな)


 デュベルに不満があるわけでないが、蟹というのがよくわからない。他の魔法少女の相棒がたとえば――猫や鳥、兎のようにかわいらしい感じだったら納得がいかない。他の魔法少女の相棒はぜひともコウモリやヘビやトカゲだったりしてほしいのだが。

 ともあれ、デュベルの方から話しかけてくる場合その要件は大体限られている。


「怪物が出た」

「――そう」


 予想通りの言葉にそれだけ頷いて、料理を再開する。デュベルが何も言ってこないことに少しだけほっとする。

 もう魔法少女はやめると宣言した。その通りの対応をするだけで、今は食事を用意することの方が大事だ。訓練も戦闘もなければかなり自由な時間を獲得することができる。少しずつサボりがちになっていたところの掃除など、やることはいくらでもあるのだ。

 怪物が出たところで、ちゃんと逃げていれば死者だって出ることもない。もう関係は――

 はっと顔を上げて、デュベルに再度視線を向ける。


「怪物はどこ?」

「向こうに――800メートル」


 デュベルがはさみを向けた方向に視線を転じる。壁しかないが、その先にあるはずのものを頭の中で地図を開いて確かめる。


(確か……)


 スーパーのある方角だ。距離的にも、おそらくそこに近いところだろう。

 ほっと胸をなでおろす。そこのスーパーには、父がいる可能性などない。そもそも仕事中だし、800メートルということなら間違いなく関係ないのだが、

 一安心したところで、だいぶ気が楽になった。

 台所に置いたままのスマートフォンを開いて、ちらちらと見ながら料理を続ける。

 父さえ無事なら、それでいい。

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