8話 桐生苗①
「苗ちゃん、わたしもういかないと」
「まって、いかないで」
制止の声に、幼い少女は力なく首を振った。
「もうだめなの。いかないと」
「だいじょうぶ。わたしがなんとかするから――」
「ううん、もういいの」
幼い少女はじっと無感動な瞳を向け、告げた。
「苗ちゃんはわたしをたすけてくれなかったね」
「――ちがう!」
その叫びで目を覚ました。
カーテンを閉め切った真っ暗な室内、ベッドの上で上体を起こして
夢の内容が嫌にはっきりと頭の中に残っている。はっきりと悪夢だった。それも、久しく見ていなかった悪夢だ。
うなだれたまま、深呼吸を一つする。
「よし、落ち着いた」
暗示をかけるようにつぶやく。手探りで枕もとのスマートフォンを掴み時間を確認する。6時15分。目覚ましが鳴る45分前だ。
寝なおすような時間ではもうないので、諦めることにする。
勢いよくカーテンを開けると、刺すような朝日が部屋の中に飛び込んできた。目を細めて窓の向こうを見やる。そこから見えるのは家の庭だ。母がやっている家庭菜園が大半を占めているが、こだわりを感じられて野暮ったさとは無縁の庭だ。母は家庭菜園とは言わず、ガーデニングと言いたがるが。
軽く伸びをして、着替える。
桐生苗は、小学六年生になったばかりの女子だ。鮮やかなショートヘアに、かわいらしい顔立ちが目立つ。目には生気が満ち満ちていて、表情にも自信を感じさせる力があった。
着替えることには、既に悪夢のことは意識の外に追いやっていた。
自室を出て階段を下りる。リビングのドアを開け、中に向かって挨拶を投げながら入っていく。
「おはよう」
「おはよう、今日は早いのね」
「なんか目が覚めちゃって……」
「夜更かししてるんじゃないよな」
食卓についている父がじろりと見てきながら冗談めかして言ってくる。
「夜更かししてたら逆に起きれないでしょ」
「……それもそうだな」
頷いて食事に戻る父に何か言おうとして、特に思いつかなかったので洗面所に向かった。
洗顔と歯磨きを終えて再びリビングに戻ると、父は食事を終えていた。身支度も済ませていて、鞄を手にしている。戻ってきた苗を見ると、顔をわずかにほころばせた。
「いつもこれぐらいの時間に起きてもいいんじゃないのか」
そう言って、苗の頭に手を置いた。苗が普段決めている時間通りに起きると、父は既に出社している。そのことを言っているのだろう。
「眠たいもん」
年相応の、拗ねた口調で言い返す。本音を言えばこの年で頭を撫でられるのは少しばかり――少しばかり嫌ではある。父が喜ぶから好きにさせてはいるが、それを避けるために起きる時間を調整している部分もある。
父は苗の頭を少し雑に撫でると(そもそも撫でるのが下手なのだ)、満足そうに微笑んで家を出た。
「行ってらっしゃい」
言葉だけで見送り、一仕事終えた心地で食卓に着く。母も合わせたように向かいに座り、互いに手を合わせて食事を始める。
「六年生になったけど、どう?」
「どうっていっても普通だよ? もう二か月は経ってるし」
「苗の普通はちょーっとわかりにくいのよね」
嘆息する母に眉根を寄せて言い返す。
「普通は普通だよ。私普通だし」
「うーん」
母は小首をかしげて、テレビのチャンネルを回し始めた。途中で映ったニュースを見て、あらと声をあげた。
つられてテレビを見ると、怪物が暴れている映像が流れていた。
「ああ、怪物」
「怖いわよねぇ」
つい最近になって発生し始めた現象に、苗も母も危機感無くつぶやいた。
怪物と魔法少女が初めて観測されたときはかなりの騒ぎになった。苗も現実にそんなことが起こるなんて想像もしたことがなく、フェイクニュースの類なのではと思っていたぐらいだ。怪物も魔法少女も現実だったが、怪物は人を好んで追うことはほとんどなくその場で暴れやがて消えていくということが判明していくうちに一般には深刻に受け止められなくなっていった。
そもそも発生率も少ない、いくつかの都市にこれまで月に一度か二度程度だ。これが続くのかどうかもよくはわからない。
人的被害は国内に限れば12人が軽傷。重傷者は1人。死者は0人。物的被害の方が深刻視されているぐらいだ。
むしろ熊などが出た方が怖いとまで言われているが。避けるに越したことがないのも確かではある。
「あら、魔法少女」
テレビを見ていた母が無感動につぶやく。怖いと言った時と変わらず、他人事の口調で続ける。
「すごいわねぇ」
テレビの中では魔法少女が飛び回り怪物と立ち回りを演じている。こうして見ていると特撮映画とそう変わりはないが、どうやら現実らしい。知っているはずなのに、いまだにその辺りがピンとこない。世界規模で起こっている現象なのだが、遠い国の戦争のように現実味はない。
正直なところ、苗としてはあまり興味はなかった。クラスで話題になることはあるのだが、遭遇率が交通事故より低いものをそこまで気にしてもしょうがないと思うからだ。それよりも、目の前の現実の方が大事だ。
「苗も怪物には気をつけなさいよ」
「わかってるよ。お母さんも気を付けてね」
「大丈夫よ」
母はテレビから苗に視線を移した。眉を浅く歪めて、心配そうに言い足した。
「学校、本当に大丈夫?」
苗は胸を張って返事をした。
「大丈夫だって、普通にさ」
☆☆☆
「謝りなさいよ!」
「なんでおれが……」
床に視線を落としながらぶつぶつとぼやく男子を威圧するように、だん! と足を強く踏み鳴らした。
「最初にちょっかいかけたんでしょうが!」
苗の傍らには内気そうな女子が泣きそうな顔をしている。元気づけるように肩に手を乗せて、男性に向かって言い募る。
「悪いことしたんならちゃんと謝りなさい!」
男子はなおにいじけた様子でぶつぶつ言っていたが、やがて諦めたようにぼそっと「ごめん」とつぶやいた。というか、たぶんそういったのだろうとどうにか判断できる程度の声だった。
「今の聞こえた?」
「え、えっと……」
女子は困ったように苗と男子を交互に見て、静かに首を振った。
苗はぎろりと男子を睨みつける。
「だってさ」
「いや謝っただろ」
「聞こえないのは謝ったことにはならないでしょ!」
𠮟りつけると男子は苦々しい目つきで苗を見返してきたが、すぐに力を失ったように視線を落とした。
「……悪かったよ」
「うん、いいよ」
女子がそう応じると、苗は笑顔で頷いて男子にもういいよと手つきで示した。男子はなにやらぶつぶつ言いながら教室を出ていった。
女子は苗の手を握ってたどたどしい口調で礼を言った。
「苗ちゃん、ありがとう」
「全然いいよ、いつでも頼ってね」
苗はにっこりと笑って、自分の胸を叩いた。
苗はクラスの委員長で、女子の中でも中心的な存在でもある。
苗の好きな言葉は「正しさ」で、それを果たすことを至上としている。クラスで揉め事が起こった場合は、苗は必ず悪い方に謝罪をさせる。両方が悪い場合は両方をだ。
そんな苗を陰で裁判官と呼ぶ人がいることを苗を承知している。だがそんなことは気にしていない。苗をどう呼ぼうが、正しさが為されてさえいればそれでいいのだ。
男子でも女子でも関係なく苗の正しさは執行されるが、どうしてだか男子は苗を嫌い、女子の方が苗を頼ることが多かった(苗を嫌いな女子もいるが)。今日もクラスの女子から男子にイジワルされていると相談を受けたのでこうして呼び出して話を付けた。
このように正しさを為せた日は。苗にとっても気分の良い日だと言える。
だから、この日苗は上機嫌で帰宅をした。
自室で宿題をやってしまおうと準備をしていると、窓がこんこんと音を立てた。
「?」
おそるおそる窓を覗く。誰かのイタズラかとも思ったが、窓の外は庭だし見た限りは誰もいない。
窓から離れて椅子に座ると、また窓がノックのような音を立てた。
眉をしかめる。さすがにおっかない気持ちでもう一度窓を覗く。しかし何も変わった様子はない。
そっと窓を開ける。と、隙間から何かが飛び込んできた。
「きゃあっ!」
驚きに悲鳴をあげて、床に尻もちをつく。
(なに、鳥!?)
カラスか何かが飛び回っていることを予想しながら振り返るのだが、苗の予想からは見事に外れた光景が待っていた。
まず、何も飛び回ってなどいなかった。疑問に思いながら部屋を見渡すと、それはいた。
「え……え?」
狼狽えながら、それを見つめる。机に乗っているそれは柴犬のように見えた。灰色の毛並みに愛らしい瞳はまさしくそれだ。ただしサイズ感がほとんどぬいぐるみか人形で、苗の両手の平に乗りそうなほどだ。見た目は犬なのだが、舌を出すこともなくじっと座っている。
なにより、背中から白い羽が生えていることが、苗の中の犬とははっきりと違うところだった。
誰かがぬいぐるみを投げ入れたのだろうか。立ち上がり、そっと手を伸ばして触ろうとする。
苗の手が届くより先に、その犬が口を開いた。
「驚かせてごめん」
「しゃ……べっ……た……」
呆然とつぶやく苗を無視して、犬は話を続けた。
「ボクはリーフマン、とりあえずボクの話を聞いてほしいんだ」
「…………」
苗は完全に硬直して、リーフマンと名乗った犬を眺めているだけだった。
少しの沈黙が流れ、
「苗? どうかしたの?」
ドアの向こうから母の声が飛んできた。苗の硬直も解けて、今度は反対にわたわたと慌てふためいた。
犬は前足をこちらに伸ばして、たしなめるように言ってきた。
「大丈夫だよ、問題ない」
(あ、あんたが言う!?)
声には出さずに文句を叫ぶ。
苗が何もできていない間に、部屋のドアが開けられた。
「どうかしたの? なんかすごい声したけど」
「い、いや……」
母は部屋を見回して――途中で机の上にも視線が通ったはずだが、何の反応もなくただ首を傾げた。
「窓、閉めないと虫が入ってくるわよ」
それだけを言いおいて、母は部屋を出ていった。
たっぷり一分ほど待って、犬に顔を向ける。犬は当然だという顔をしていた。
「ボクのことはキミしか見えないよ。それで、キミの名前は?」
「……桐生苗」
「苗か。まずはボクの話を聞いてくれ」
誰かのイタズラだろうか。まったくもって意味が分からない。母には見えなかったと言っていたが、動いてなければただのぬいぐるみかで流しただけかもしれない。
こいつを触って調べてみようと手を伸ばした苗に、犬ははっきりと告げた。
「キミに、魔法少女になってほしいんだ」
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