45話 雲居巫香⑯

 家に帰ろうと飛んだはいいものの、飛行はさっぱりうまくいかなかった。


「あ、あれ……」


 必死に空中でバランスを立て直しながら、恥ずかしさに微かに顔が赤くなる。

 戦闘中はそんなに飛行を行わなかったが、今ならもう少しできるようになったと思っていた。戦いが終わったとはいえ、これではいつもの巫香だ。

 神降ろし――いや、仮面を使っていない自分はいつもの何もできない巫香だ。それがちょっと戦ったぐらいで変わるわけがない。考えればわかるはずなのに、もう少しできるようになった気でいた。

 たまらなく恥ずかしくなって飛行がさらに乱れたので、それどころではなく制御に集中する。

 速度は出ないもののなんとかまっすぐ飛べるようになると、すぐに戦いのことが頭に浮んだ。

 仮面を使い、なんとか怪物を斃せた。無我夢中で細かい部分はよくは思い出せない。それでも手の中に怪物を斃した確かな実感は残っている。

 今まではそんな実感もなかった。なにしろ巫香自身が戦っていない。降ろした神に任せていただけで、テレビでも見ているような感覚で戦闘を眺めていただけだ。

 なにより、妹を守ることができた。

 夢を持ち頑張っている妹は自分なんかよりよっぽど価値がある人間で、傷ついていいはずがない。


(……?)


 ふと内心にちくりとしたものを感じて、胸に手を当てる。

 まあいいや、とアイピーに声をかける。


「ねえアイピー、みかだけで勝てたよ」

「そうね」


 アイピーの返事はやけにそっけない。

 途端に不安を感じて言い募ろうとした巫香を、アイピーは一言で制した。


「話は帰った後にするわ」

「……うん」


 頷くと、会話は終わってしまった。

 納得いかない心地に横目でアイピーを見やる。表情に喜びはなく、いつもの厳しい顔つきだけがそこにある。

 どうしてだろう、と少しむっとする。巫香は巫香なりにできることをやれたはずだ。怒られることなんて、たぶんないのに。

 たしかに神降ろしをしていた時と比べればみっともない戦いだったかもしれないけど……

 気分が落ちるとともに、飛行の速度も落ちた。慌てて元の速度に戻そうとするのだが、あまりうまくいかなかった。

 先に行く形になったアイピーが、すぐに気づいて振り返った。


「どこか調子が悪いの?」

「ううん」


 短く否定するが、アイピーはじっと巫香を見つめてくる。やがて「そう」と元の方向を向いて進んでいってしまった。

 なんだろう、と思いながら速度を上げる。なんとか元の速度に戻すことができて、アイピーと並走する。

 自宅に到着した。自室の窓から戻り、床に足をつけるとともに変身が解除される。と、膝の力が抜けて、床にしりもちをついた。


「巫香!?」

「ちょっと疲れた……みたい」


 立ち上がろうとしても、うまくいかなかった。怪我は治したはずなのにおかしいなと不思議に思うが、まあいいかと床に座ったままでいることにする。

 見上げる位置にいたアイピーが巫香の目線の高さまで下りてきた。その表情に説教の気配を感じて、首を縮めて待つ。


「わかってる? 死ぬところだったのよ」

「死ぬって……」


 大げさな言い方だと思うのだが、アイピーの表情は真剣そのものだった。

 アイピーが本気で言っているとわかっても、現実感の薄さは変わらなかった。結果的にうまくいったし、死ぬなんてことは考えもしなかった。

 アイピーの視線が下にずれた。追うと、血まみれの巫香のシャツが映る。戦いの途中で巫香が吐いたものだ。血を吐いた覚えはあるが、痛くもなかったし気にしていなかったのだが。

 あれ、とさっと血の気が引いた。戦っている間はまったく気にならなかったが、こんなに血を出したら普通は死んでしまうのではないか。

 ぶるっという身の震えを誤魔化すように、小さい声で反論する。


「でも、生きてるよ」

「結果的にはね」


 アイピーの声が厳しさを増した。迂闊な反論をたちまちに後悔して、目線を落とす。

 アイピーは何も言わない。気まずい沈黙の中、巫香はとにかくアイピーの言葉を待つ。恥ずかしいやらなにやら内心に湧いてくる気持ちを必死に抑えて、膝に置いた手をぎゅっと握る。

 しばらくして、アイピーが静かに訊いた。


「退こうって言った時、どうして従わなかったの?」

「だって……」


 答えようとした言葉が喉につっかえた。

 あの時考えていたことは一つだった。死ぬかもしれないとか、そういうことは一切考えていなかった。

 これを口にして、アイピーに通じるとは思えない。けれど、巫香はそう言うしかない。実際に思ったことなのだから。


「みかが逃げたら、怪物は巫琴の方に行くと思ったから……」

「どうして?」


 アイピーが疑問する。責めている、というよりは本気で分からないという風に顔をしかめている。

 だって、と巫香は答える。


「怪物がどう動くかなんて、わからないんだし……」

「だったら巫琴の方に行くかもわからないでしょう」


 巫香の拙い反論をあっさりと潰して、アイピーは続ける。


「あの時はもう巫琴は公園から出ていたし、怪物に巫琴を見つけるのは難しかったわよ。仮に公園を出ても、回復してから追えば誰も巻き込まないまま戦えた」

「…………」


 つらつらと並べられて、巫香はぐっと唇を噛んだ。

 どうして? は一番嫌いな言葉だ。言われても答えれらないことが多いし、答えてもこうして潰される。

 巫香が悪いのなんてわかってる。ちゃんと言えないし、筋が通らないからあっさり言い返される。それを悔しいと思うこともあまりない。仕方のないことだと、そう思っている。

 けれど、今はいいではないかとも思う。

 ぽとり、と頬を伝った涙が巫香の手に落ちた。泣いていることを自覚しても、抑えることができない。


「あんな危うい戦い方を今後もさせるわけにはいかないわ。もう少しちゃんと考えて……」

「……いいじゃん」

「うん?」


 訊き返すアイピーに、うつむいたまま続ける。


「いいじゃん、うまくいったんだから」

「やり方の問題よ。大体巫香は……」

「だからいうじゃんって!」


 こらえきれずに顔を上げて声を荒らげる。

 涙で滲む視界で、アイピーがきょとんとしている。通じない、とはわかっていても言葉を止めることができない。


「みか一人で怪物をやっつけられたんだよ! 今までできなかったことができた、それじゃダメなの!? ちょっとぐらい褒めてくれたっていいじゃん! 初めて、初めてみかが自分でできたのに……」


 想うままの言葉は次第に勢いを失い、小さく消えていく。

 アイピーは不思議そうに眉をしかめている。巫香の癇癪は何も通じない。無力感が全身を満たして、肩を落とした。

 なにもしてこなかった巫香は、どう言えば伝わるのかわからない。今までしてこなかったことがいきなりできるようになんてできるわけがない。

 ちょっとやったぐらいで、それが認められずに泣きわめくなんて、そんなだからこういう人間になってしまったんだ。

 悔しい、と強く思った。

 どうしたらいいのか、誰か教えてほしい。

 どうしたら、巫香は――


「ねえ、いる?」


 扉の向こうから、ノックとともに巫琴の声がした。

 巫香はアイピーと顔を見合わせて、同時に瞬きをした。

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