第3話 「高遠以来」を誇る老侍医
同日申の刻。
ひたすら周章狼狽していた老侍医は、やっと本来の威厳を取りもどしつつあった。
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――本日はことのほか残暑きびしきゆえ、老骨にはいたって応えおるわ。ご当家の将来を左右する大事なご婚礼を控え、殿さま一家の健康を一手にお預かりする拙医は万全の体調を保持しておかねばならぬゆえ、しばしご無礼させていただくとしよう。
奥まって目に立たないのをさいわい、自室の戸障子をがらりと開け放ち、築山の裾を這う小川越しの涼風に心地よくまどろんでいるところをいきなり叩き起こされた。
早く、早くなされよ!! (。-`ω-) 迎えの家臣にやたらに急かされ、寝乱れた髪を整える間もなく駆けつけて来たばかりに、とんだ恥をかく仕儀と相なった。💦
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――ほかならぬ姫君の大事にあたって、侍医らしき施術をなにひとつ施せなかった事実は痛恨の極み。事もあろうに、殿さまご一家お揃いの席でかような醜態をさらすとは、仮にも「高遠以来」の出自を誇る
眼前の老侍医を知恵が極めてクールに観察する理由は、常日頃の権高ぶりにある。
廊下ですれちがっても、隅に畏まっている当方に会釈ひとつ返す気もないらしい。
上物の羽織の袖裏にまで鼻持ちならぬ傲岸を匂わせ、足音高く、傲然と歩み去る。
そんな殿さまのご威光を笠に着る場に遭遇するたび、知恵は内心で毒づいていた。
――田舎者の老いぼれ爺がなにかと言えば「高遠以来」を鼻にかけおってからに。聞くところによれば、信濃国では海と申せば諏訪湖を指すものと信じておるそうではないか。ふん、井の中の蛙のくせに他国人を見下すなど、ちゃんちゃらおかしいわ。
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先々代の公方さま(二代将軍秀忠)の実子で信濃国高遠三万石を養家とする肥後守は、お腹ちがいの兄上に当たる先代公方さま(三代家光)に格別なご厚誼を賜った。
ひときわ悋気が激しいと評判の御台所・阿江之方さまへの配慮もあり、乳母の侍女に産ませた肥後守の存在は長く秘されていたが、たまたまの旅先で聡明篤実な異母弟の存在をお知りになった先代さまは、肥後守が二十六歳のとき出羽国山形二十万石、さらに三十三歳のときには陸奥国会津二十八万五千石(会津二十三万石に加え幕領の預かりとして南山五万五千石)に加増移封をお命じになったので、殿さまはそれまでのご不運を一気に取りもどすように、諸大名の羨望の的となる大栄転を遂げられた。
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