第38話 馬も食わないなんとやら(笑)




「お言葉ではございますが、わたくしとて子どもではないのですから、さような仕儀はとうに……」憮然として知恵が言い返すと、精悍な頬を怒気で赤く染めた欣之助は「諸侯の華々しき戦いぶりが今に語り継がれる関ヶ原合戦や、冬と夏の二度に及んだ大坂の陣の戦後、敵とは申せど生身の人間を殺し、また殺されかかった恐怖体験に、急流の木の葉の如くいたぶられつづけ、ついには心に穴が空いて廃人となった武将も少なくなかったと聞いておる」まるで蛇蝎だかつに対するように苦々しく吐き捨てた。



 ――えっ、さような話は初耳じゃ!!



 もしや、兄上も、周囲の人たちも、女のわたくしの耳には入れぬように気を配っておられたのか。いまさらながら世間知らずを思い知った知恵は恥辱に頬を熱くする。


「であればこそ、同じ男である拙者には、生木であれなんであれ、戦勝を約してくださる神にひたすら祈念せずにおられなかった武士の心情が痛いほどに分かるのじゃ」



 ――欣之助どののおっしゃる仕儀は、完膚なきまでの正論じゃ。なれど……。



 気軽な世間話が一転、あれよあれよと言う間に土俵際に押しきられた格好の知恵は、顔の上にもう一枚、無理やり薄い皮を被せられたような鬱陶しさを感じていた。


 考えてみれば、子ども時代はともかく大人になってからの欣之助どのをわたくしはほとんど承知しておらぬ。何気ない話題を転じて、かように一方的な正義感をふりかざされるのは堪らぬ。面倒が苦手なわたくしとしては、この先が思いやられるわい。


 百年の恋も……の暗澹たる思いに駆られかけたとき、霧笛の上の欣之助が詫びた。

「いや、知恵どのを責めるつもりは毛頭なかった。どうか拙者の勇み足を許されよ」


「わたくしのほうこそ、いささか浅慮に奔りました。以後、十分に気を付けますのでどうかお許しくださいませ。ささ、それより馬たちに水を呑ませてやりましょうよ」

 明るく答えた知恵は、携行している竹筒を取り出し、鉄扇の口許に近付けてやる。

 同様に霧笛を労わりながら欣之助は目の端で知恵の顔色をうかがっているようだ。


 男女の恋も矛盾と相克に満ちた摩訶不思議な人間模様のひとつゆえ、一段階が成就したからといって、そうとんとん拍子には運ばぬものらしい。まことに面倒と申せば面倒、おもしろいと申せばおもしろい。どうせならば後者を取るほうが楽しかろう。

 切り替えの早い知恵は、楽しく生きるための胸算用をちゃちゃっと軽快に弾いた。




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