第39話 信濃国の八ヶ岳と「風の三郎」伝説
出で湯の里・
国境を過ぎたとたん、周囲の風景も、いかにも山国らしいたたずまいに一変した。
「欣之助どの。あちらをご覧なさいまし。噂に聞く八ヶ岳連峰にござりましょう」
笹子峠での口論をきれいに忘れた知恵は、子どもの如く興奮し右手を指し示した。
「まことに見事な。棒で叩かれたような頂上の凸凹が、駿河の富士山との高さ競いの証拠にござるな。清冽にして凛然たる山巓は信濃ならではじゃな」欣之助も応える。
まさかとは思うが、再び理屈をまくし立てられたりしたら、わたくしとしてあまりうれしくないやも知れぬ。ひそかに用心していた知恵は、ほっと胸を撫でおろした。
*
はるかなる大昔。八ヶ岳の頂上が富士山より高かったころ、富士山の
仲裁に入ったのは、両山の中間に位置する木曽御嶽山の阿弥陀如来だった。
高さ争いの公平を期すべく知恵を廻らせた阿弥陀如来は、双方の山頂に
争いに敗れた富士山の木花之佐久夜毘売命は、悔しさのあまり、八ヶ岳権現の頭を棒で叩いたので、稜線はゴツゴツした八つの峰(硫黄岳、横岳、阿弥陀岳、赤岳、権現岳、旭岳、西岳、編笠山)に分かれ、八ヶ岳の山頂は以前より低くなった……。
欣之助との会話をはずませたい知恵としては、無為な争いの滑稽を話題に載せたいところだが、富士山の女神の狭量をことさらに事挙げしたりすれば、先刻の「矢立の杉」での男女論の再燃を招きかねぬゆえひとまず諦め、話を別の方向に転じさせる。
「保科屋敷の碩学と言われるご近習から仄聞したところによりますれば、彼の伝承は荒唐無稽な昔話にあらず、ちゃんと元になる証があるそうにござりますよ。あくまで又聞きではござりますが……」できるだけ控え目な口調で告げると、意外にも欣之助は尾鰭を振って撒き餌に飛び付く金魚のように、知恵の語り草に食らいついて来た。
「それは拙者も聞いた記憶がござる。すなわち、両火山の噴火の形態説でござろう。歳月の古さで申せば、八ヶ岳のほうが富士山より約三倍近く最初の噴火が早かった」
「さようにござります。いや、びっくり、欣之助どのは博識でいらっしゃいますね」
「いや、さほどでもないが……。で、そののちも、八ヶ岳の噴火は北から南へと移動しながらつづいた。かたや、富士山は同じ場所で噴火を繰り返し、そのたびに山頂に熔岩を積み上げて行った。よって、八つ嶺の高さは、ついに孤峰に及ばなくなった」
「うわあ、すごい! 欣之助どのは話術の天才でございますね」鉄扇の上で、知恵は決して世辞ではない、心からの喝采を送る。比較するようで申し訳ないが、奥女中衆に話してくれた近習の話は、まわりくどいばかりで、一向に埒があかなかったので。
人は物識りなばかりでは、いかぬ。かような御仁を、本当の賢者というのだろう。欣之助の聡明ぶりに惚れ直した知恵はもうひとつ別の話題も提供してみたくなった。
*
「では、もうひとつ。この辺りの興味深い伝承をご存知でしょうか」
「ふむ。いかような?」上機嫌の欣之助もすぐに乗って来てくれた。
「これも又聞きにて恐縮ではございますが、八ヶ岳山麓のとある村に、猛烈な強風による被害を守ってくれるという『風の三郎』を祀った石祠があるそうにござります」
「『風の三郎』とは珍妙な……。それは人名でござるか? それとも、風の名称?」
「富士山に棒で叩かれて生まれた八つ嶺のひとつである権現岳は、別名を風ノ三郎岳と申します。その麓に諏訪湖の水煙を巻き上げ猛烈に吹き降ろす八ヶ岳颪の通り路になっておる谷間があり、無事な風送りを祈願する標章が『風の三郎』の石祠と……」
果たして、欣之助は深々と首肯しながら詠嘆口調で心からの感慨を述べてくれた。「やれ、切なやな。笹子峠の『矢立の杉』伝承にも相通ずるものがあると存ずるが、山之神の怒りを畏れる民百姓の祈りは、さような寒村の小祠にも及んでおるのか」
せっかくの話の腰を折りたくない知恵は、風害に悩まされる地域がほかにもある(同じく八ヶ岳山麓の甲斐清里、天竜川を隔てた伊那中川、また出羽山形の次に探索に行く会津若松の大戸岳山麓にも『風の三郎神社』がある)事実は告げずにおいた。
また、唐突に聞こえる三郎の名称は、日本神話に登場する国生みの神・
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