第40話 杖突峠で霧笛と鉄扇の恋の成就





 蔦木の次の金沢宿で甲州街道に別れを告げた人馬二組は、かつて武田軍の軍事上の要衝だった杖突つえつき街道に分け入った。


 金沢から頂上の杖突峠まで直線距離にすれば一里にも満たぬが、高低差は七十五丈もある。峠の南の守屋山は諏訪大社のご神体で、地上に降臨された神が初めて杖を突いた場所が杖突峠。峠の晴ヶ峰の別称も「ハレの儀式が行われる峰」に拠るそうな。


「何やら神がかった気をビンビン感じませぬか、欣之助どの」浮かれて知恵がふざければ、欣之助もさも愉しげな流し目を送ってよこし、「知恵どのは他者に影響され易い性質ゆえ。至って冷静な拙者には、妖しげな霊気などそよとも感じられませぬぞ」


「んもう、欣之助どのったら……わたくし、さように胡乱な性質ではございませぬ」

 言いながら背後を振り返った知恵は、自分でも驚くような大絶叫を発していた。


「うわあ、すてき。ご覧なされませ、欣之助どの。諏訪湖がほら、あんなにキラキラと光り輝いて。まるで天の女神が化粧につかわれる巨大な鏡のようにござりますよ」

「まこと、胸のすくような絶景でござる。これぞ『みすずかる信濃』にござるなあ」



 ――どうどう。



 同時に愛馬の足を止めさせたふたりは、眼下に広がる露草色の湖面に見惚れた。

 杖突峠と同様に神秘的な諏訪湖にも、さまざまな伝承が語り継がれている模様。


 あの青い湖底の底には、心を病んで甲斐から帰された諏訪御両人(武田勝頼の母)が眠っておられると聞く。戦国の倣いとはいえ父の仇を夫とし、あろうことか、その仇を愛してしまった姫君の煩悶の深さたるや、女子として、人としての容量をはるかに超えていたであろう。同性として、知恵は悲劇の姫君の冥福を祈らずにおられぬ。


 青く染まった眸を上方に転ずれば、東方の中空には、八ヶ岳、霧ヶ峰、王ヶ鼻の峰々が横一列に並び、首をめぐらせれば、はるか北西の雲上に、六曲一双屏風を幾組も連ねたような飛騨山脈の山巓が浮かんでいる。


 押し寄せる敵陣の如く四囲を取り囲む聖なる山々に探索旅の成功を祈念した刹那、にわかに掻き曇った空から、葡萄の房のような雨が、どさっとばかりに降って来た。


 雨宿りの場所を探すと、折よく古錆びた社が目に入った。

「欣之助どの。ひとまず、あそこで時雨をやり過ごしましょう」

 

 素早く鉄扇を社の軒下に引き入れた知恵は、きゃっきゃっと笑いころげて「ああ、可笑しゅうございます。欣之助どのの慌てようといったら、まるで山賊にでもおそわれたみたいでしたよ。もしかして、相当に苦手なほうでいらっしゃいますか? 雨」


「いや、さような仕儀は決してござらぬ。あれほどの好天がなんの前触れもなしに、とつぜん雨天に変じた状況にいささか驚かされただけにござる」照れくさそうに弁解する欣之助に、知恵がふたたび揶揄からかいの言辞を投げかけようとしたときだった。



 ――ひひ~ん! 


 ――ぐふ~ん! 


 

 切羽詰まった、されど、なんとも甘やかないななきが間近に聞こえた。

 はっとしてかたわらを見やると、霧笛に分厚い頬を近々と寄せられた鉄扇が、知恵の掌の倍以上もありそうな眸を真っ赤に潤ませ、やるせなげな吐息を漏らしている。


 霧笛はさも愛しげな目で鉄扇を見詰めながら、漆黒のたてがみ、下顎の柔らかい皮膚、口のまわりの触毛、牡丹色の厚い舌などを、それはそれは丹念に舐めてやっている。



 ――もしや? 



 知恵は欣之助と顔を見合わせた。

 神秘な山気が妖気に変じ、相思相愛の二頭の熱情を煽り立てているのやも知れぬ。


 息を詰めてふたりが見守るなか、二頭の情愛はますます猛く激しくほとばしった。

 一陣の生ぐさい風が吹きぬけて行き、気付けば、いつの間にか雨は上がっていた。





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