第37話 笹子峠「矢立の杉」にて口論




 文字どおりの人馬一体となった二組の男女は、やがて笹子峠に差しかかった。

 甲州街道で最大の難所として、旅人から恐れられる険隘けんあいな難路だが、きびしい修練を経た忍者にして馬術遣いでもある知恵と欣之助にはさしたる難所にも思われぬ。


 人馬共に息もきらさず登りきった山頂に、戦国の昔、戦場いくさばに出陣する侍が矢を射立てて戦勝を祈ったという巨樹「矢立の杉」が白雲が浮かぶ天空に突き立っていた。馬をひと休みさせようと鉄扇から降りた知恵は、満身創痍の古木を痛ましい思いで見上げた。一身に祈りを負うた積年の結果か、幹のなかは無惨な空洞になっている。


「欣之助どの、ご覧召されませ。御公儀の御代になって四十余年が経つというのに、未だ生々しい痕跡が……。如何な勇猛果敢な武士といえど、生きて帰れるとは限らぬ出陣の前には、縁起担ぎや願掛けや神仏にお縋りしたかったのでござりましょうね」


 古木の霊魂に届けよとばかりに知恵が告げると「遮るべき手段の何ひとつ持たず、裸形らぎょう丸出しで無防備に立ち尽くすところを、四方八方から飛んで来る数多の矢に射かけられ、如何に恐ろしかったであろうのう」欣之助も素直に同調してくれる。


「人や動物なら、とっくに逃げ出すところでございますが、あいにく木は一歩も移動できませぬ。何処のどなたが思いついた弱い者いじめやら存じませぬが、抵抗の術のいっさいを持たぬ樹木を標的にするとは、まったくもっておとこの風上にもおけませぬ!」述べながら自分の口調に興奮した知恵は、思わず語尾を強く跳ね上げていた。


 当然、欣之助も即座に賛同してくれると思っていたが、まったく当てが外れた。

「いや、拙者はさようには思いませぬ。無辜むこの樹木にとってはたしかに気の毒な仕打ちではござろうが、かたや武士とて弱い人間でござる。死ぬか生きるかの瀬戸際に必死で縋るものを求めたとしても、たれにも責め立てられる仕儀はございますまい」



 ――はぁ? なにやら、わたくしが薄情な女として責められておるような……。



 欣之助の旅情を楽しませようと発した四方山話だっただけに、知恵は心外だった。

「無論でござりましょうとも。なれど、わたくしは、なにも敢えて、無抵抗の樹木に矢を射立てずとも、ほかに縋り付く仕儀は、いくらでもあったはずであろうと……」


 全部を語らせず、「さような空論は戦場に赴かずに済む女子の、単なる言葉遊びに過ぎませぬ。よろしいか、知恵どの。真剣に武士の身になって考えてみなされ。如何なる恣意によるものか、一部の目立った武将の英雄働きばかりがもて囃されおるが、戦の実態は極め付きの凄惨にござるぞ」珍しく欣之助は激しい口調で否定して来た。




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