第36話 夫婦の契りを交わした翌朝





 八月二日寅の刻。

 知恵と欣之助は、一路、幼い幸松が養子に行った信濃の高遠を目指して出立した。


 昨夜の今朝とて(湯殿の賊を追い払ったあと◇※△Ж)軽快な駆行かけみち(駆足)で未明の山道を急ぐ鉄扇と霧笛に顔を見られずに済むのは如何にもありがたい。(笑)


「ねえ、きんちゃん。ふたりで無心に遊びまわっていたころは、そう遠くない将来、かような日が来ようとは、寸分たりとも思うてもみませんでしたよねえ」慣れぬ旅で疲れていように、軽快な蹄を健気に運ぶ鉄扇の背に揺られながら知恵が甘く話しかければ、秋晴れに隆々たる筋肉をうねらせる霧笛の背で、欣之助は意外そうに答える。


「え、さようだったのか。拙者は昨夜の場面を何度となく夢想していたが……。あ、いや、こっちの話でござる。まことにもって、縁は異なもの味なものでござるなあ」

「何処に何が転がっておるやら分からぬのが、人生の面白味でございましょうねえ」

 二十二歳の男子と二十歳の妙齢の女子の会話とは思えぬ、渋い展開になって来た。


 瞬時の間を置き、思いきったように欣之助が告げる。「ところで、そのきんちゃんの呼称はいささか……。何やら尻がむずむずしてまいって、妙に落ち着きませぬ」


 知恵は横目でちらっと欣之助の顔を見やり、笑いを堪えながら、神妙に提案する。

「では、今まで通り、欣之助どのとお呼び致いたしましょうか? 何やら他人行儀でございますが……。それとも、いっそ、あなたと?……。あらやだ、自分で提案しておきながら何ではございますが、本物の夫婦みたいで恥ずかしゅうございますわね」


 勝手に告げて勝手に照れながら知恵は抜けるような青空のもと真っすぐ西へ進む、気の合った同行四者旅が楽しくてならぬ。


「なに、押しも押されもせぬ夫婦になったのですから、一向に構いやいたしませぬ。ただ、探索には差し障りがあるやも知れませぬゆえ、旅のうちは欣之助と呼んでいただくほうが無難やも知れませぬ」欣之助の進言に素直に従いながら、知恵は思った。



 ――無事に探索を終えて江戸へもどったとき、謹厳実直の四文字を背に張りつけたような兄上に、昨夜の一件のことを何と申し開きしたらよいだろう。わたくしはともかく、欣之助どのは弟弟子を破門されるやも知れぬ。



 目を伏せた知恵の心情を読んだかのように、欣之助が恬淡とした言辞を口にする。

「兄弟子との約束を反故にした件は心配いりませぬ。拙者が如何に知恵どのを大事に思うておるか心を砕いて説明します。真心の通じぬ兄弟子ではいらっしゃいませぬ。妻として、生涯、大切にいたしますとお伝えすれば、きっと分かってくださいます」


 真剣そのものの口説は、すなわち知恵への愛の告白でもあった。

「義姉上さまも、きっとお口添えしてくださいますでしょうしね」


 謳うように応える知恵の頭上を、やはり相思相愛らしい雲雀の夫婦が「ピーチュークル、ピーリーチュル」とにぎやかに鳴き交わしながら、東の空へと飛んで行った。背中のふたりの睦まじさが伝播した鉄扇と霧笛も愛しげな目顔を交わし合っている。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る