第35話 知恵、湯殿で賊におそわれる
八王子千人同心村をあとにした知恵と欣之助は、兄の武光が手配してくれてあった通行手形をつかって、江戸への出女と入り鉄砲を取り締まる小仏関を無事に通過し、日暮れと追いかけっこで着いた大月宿の場末に、一夜の宿を求める仕儀と相なった。門口に
――
武田勢の旗指物(軍旗)「風林火山」(疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山)に因んだのか、名前だけは立派だが、年季の入った石置き屋根は白茶けて逆剥け立ち、屋号入りの行燈を掲げる軒は危うげに傾いでいる、見るからに貧相な旅籠である。
知恵のふところには兄夫婦が持たせてくれた路銀入れの印籠が仕舞われているが、この先の旅の長さを思えば、最初の宿で高い宿賃を支払う気には、とうていなれぬ。置いて行かれる状況を敏感に察して不安がる鉄扇と霧笛を宥めすかして宿へ入った。
足の速い秋の日はすでに暮れきったのに、「お早いお着きで。ようお越しなさったじゃん。ささ、こちらへどうぞ」型通りの挨拶に甲斐訛りを隠さぬ年増の女中が案内してくれたのは、ぷんと黴くさい匂いが鼻を突く、北向きの窓のない六畳間だった。
――若輩と見て、値踏みしおったな。
「ひとつ部屋でよろしいですか?」とも訊かず、案内の女中が忙しげに立ち去ると、知恵はたちまち身の置きどころに困った。一方の欣之助は素知らぬ顔をして、刻み藁が突き出た土壁や、雨漏りの模様が浮き出た天井なんぞを平然と眺めまわしている。
修業以外で旅籠に泊まる経験は初めての知恵は、見るもの聞くものが珍しかった。
客は越中の薬売り、小間物の行商人、
*
海のない国の宿らしく、仄暗い行燈の下に出された夕餉は、
部屋の隅に畳まれている夜具は、客が自ら延べる仕来りになっているらしい。
湿った煎餅布団(というより継ぎ接ぎだらけの長い古雑巾のようなもの)を敷き、黒い襟掛けに異様な匂いが沁み付いた
手持ち無沙汰にしているところへ、折よく風呂の順番がまわって来たので、あとでいいと言う欣之助に「お先に~」と断った知恵は、手拭いを持って湯殿へ向かった。すでに大勢の泊り客が入ったあとらしく、夜目にも湯が鈍く濁っているのが分かる。
かように不潔な湯に浸かれば却って肌が汚れる気がするが、さような贅沢を申しておれば旅などできぬ。身体を温めるだけと割りきり、目をつぶって入ってしまおう。後退りして部屋へ逃げ帰りたくなる気持ちを封じこめて、知恵は袴と小袖を脱いだ。
緋色の襦袢がわれながら艶めかしい。ふと危険を感じ、思わず両手で乳房を覆ったが、別に異常はなさそうだった。思いきって裸になり、湯殿の縁に足を掛けたとき、たれもおらぬと思った脱衣場の暗闇から、いきなり真っ黒な巨漢が躍り出て来た。
用意してあったらしい埃っぽい布を口に押しこまれたので、助けを呼ぶ声も挙げられぬ。覆面から梟の如く猛々しい目だけ覗かせた巨漢は、夜目にも白い知恵の裸身を仰向けに
――かような輩の思うがままになるくノ一と思うてか?!
おのれの欲望を遂げようとやにわに攻め立てて来る賊の肩の関節を外してやろうと腕を伸ばしかけたところへ、物音を聞いた欣之助が駆け付けて来た。「こらあ、何をやっておる!」いまだかつて聞いた記憶がない胴間声で一括すると、秋真っ盛りの
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