第34話 老庄屋の打ち明け話
「さて、なにから語るとしようかのう。信松尼さまご存命当時のことごとを承知しておる者とて、ほとんどこの世にいなくなったいま、まあ、あれであろうのう、自分で申すのも何じゃが、稀少な生き証人と申せば、まず拙者ぐらいのものであろうのう」
――大方の老人の例に漏れず、自慢癖の持ち主であられたか。
先刻の意趣返しで、知恵は内心で見下げたが「砂利のなかの砂金の如き貴重なお方に巡り会えた拙者ども、まことに幸運にござります」欣之助は至って、そつがない。
――どこをどう押せば、かような世辞が出て来るのか、このしゃくれ顎から。
知恵は心底から呆れて、三日月顔を乙に取り澄ましている横の欣之助を見やった。
「と申しても、幸松さまが信松尼さまの許におられたのは僅かな期間。信濃の高遠に養子に行かれる前は江戸の見性院さまの許で育てられたのじゃから、この八王子では取り立てて申し上げる事柄も思い出せぬが……」老庄屋の話はにわかに窄んでゆく。
――依怙地な老人の話は「我誉め」以外に及ぶと、とたんにあやふやになりよる。
知恵は唇を歪めたが、欣之助は諦めぬ構えで、上手い方向に話を誘導し始める。
「その僅かな期間にご卓見に留まった仕儀はございませぬか? 取るに足らぬと思われる事柄でも、曖昧模糊に霞んだ状況の事柄でも、何でもよろしゅうございます」
*
皺ばんだ目を宙に泳がせていた老庄屋は、おお、そうだと言うように膝を打った。
「信松尼さまも、見性院さまも、それはそれは幸松さまを愛しまれてな。母親のお静さまをそっちのけで、競うように世話をやいておられたっけがな。あるとき信松庵の横を通りかかった拙者の耳に何事か言い争う女声が聞こえて来たことがあるのじゃ」
――おおっし、そう来なくっちゃ!!
「さような仕儀は伺っておりませぬ! 叫ぶが如き細い声は、ご生母のお静さまじゃった。そなた、わたくしの恩義をお忘れかい? 野良猫の如く路傍に打ち捨てられておったところを助けてやったのはどこのたれじゃ……と堂々たる貫禄は見性院さまのお声じゃった。日頃から物静かな信松尼さまのお声は、いっさい聞こえて来なんだ」
――絵草紙の如き綺麗事には、やはり裏があったのか。
短絡的な思考を厭う知恵には、むしろ得心がいく思いだった。
「おふたりは何を激しく言い争っていらしたのでござりますか」欣之助が先を促すと「おお、それよ」老庄屋はわざとらしく間を持たせておいてから裁きでも下すように「当座は分からなかったが、後年になって、瘤結びの糸が解れるように謎が解けた」
――だから、何だと言うのじゃ。勿体ぶらずに早く語ればよいのに……。
知恵の
「見性院さまは幸松さまを養子にして武田の再興を図られたかったのじゃ。なれど、ご生母のお静さまは武田家の後継などまったく眼中になかった。ひたすら公方さまのお子としてのご認知のみを希望しておられた。奈辺に両者の齟齬が生じたのじゃな」
――公方さまのご落胤のご生母と庇護者の間には、さような思惑の相違が……。
探索旅の初日としては上首尾じゃ。
知恵は老庄屋に感謝したくなった。
「大変に貴重なお話を、まことにありがとうございました」欣之助が礼を述べると、
「おお、そうじゃ。土産代わりに、いいものをお目にかけよう。ほれ、ご覧なされ」
老庄屋は着ていた羽織をいきなり脱ぐと、袖の裏布の目立たぬところを指し示す。
――あっ、かような場所にも「武田菱」を潜ませておるのか?!
知恵と欣之助はのけぞるほど
老庄屋は得意げに両頬を紅潮させている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます