第30話 信松庵前の痴話げんか





 新主の大御所家康に誠意を尽くしつつも、一介の猿楽師の息子に過ぎぬ自分を厚遇してくださった武田信玄の恩を忘れ得ぬ石見守が旧主の忘れ形見・信松尼に謹呈した信松庵は御所水の地と呼ばれる聖なる一画にあった。 


 武田の姫の華やかな印象を裏ぎる信松庵は、至って簡素な佇まいで、相当な樹齢を刻んだと思われる枝垂桜の下に建坪にして十坪ほどの小庵がひっそり埋もれている。


 あとを継ぐ尼が絶えて久しいと見え、人の起居の気配がうかがえないが、古錆びた白木造りの観音開きの前に、花も葉も瑞々しい黄色や赤の十数本の野菊が供えられており、青銅の花器の水を替えたばかりの証のように入口の縁がかすかに濡れている。


 年老いてなお、年ごろの乙女さながらに、楚々たる美姫びきの面影を失わなかったと伝えられる信松尼さまは、身罷られて久しいいまもなお、武田の縁故の地元の民百姓に慕われつづけておられるのか……知恵はまぶたの奥に熱く湧き出るものを感じた。


 爛漫の春にはさぞや見事な甚三紅じんざもみ花簪はなかんざしを重そうにたらすであろう枝垂れ桜は、人間界で起きたすべての出来事を見届けながら、年々歳々、同じ花を咲かせ、散る。


 時空を超えて生きる老樹に比すれば、何とまあ他愛のない人の一生である仕儀ぞ。

 深い念にとらわれた目をふと挙げてみれば、すぐ間近に欣之助の一皮目があった。



 ――いかぬいかぬ。ついついあらぬ物思いに耽るのが、わたくしのわるい癖じゃ。



 気を取り直した知恵は、柄にもない愛想笑いを浮かべ、欣之助の顔色をうかがう。

 任務上の必要時を除き、さように卑屈な行動をとった記憶を一度も持たぬ知恵は、同行者の機嫌を取り結ぼうとする、現在の自分の気持ちのありようが信じられぬ。



 ――やだ、わたくしったら。まるで一般の女子並みではありませぬか。



 冷徹な仕事人たるくノ一の矜持を取りもどすべく、さり気なく咳払いをしてから、「敢えて申し上げるまでもございませぬが、こたびの探索旅の棟梁はわたくしでございますよ。以後、棟梁の指示に従っていただきますから」重々しく欣之助に告げた。


 欣之助は、一瞬、おもしろそうに目を輝かせかけたが、故意にか、あるいは生来の口調か「むろんにて。すべて知恵姫どのの仰せに従わさせていただきまする、ご案じ召さるな」柳ならぬ枝垂れ桜に風とばかりに、のんしゃらんとした返答をよこした。


 飄々とした口説の底に潜ませた慇懃無礼な揶揄からかいが、知恵には気に入らない。

「姫はおやめくだされ。させていただくも却って馬鹿にされたように聞こえますよ」

 一歩も引かぬ構えで断固として言い返すと、欣之助は再びあっさりと受け流した。


「はいはいはいはい。仰せの通りにさせていただきます。あ、いや、いたしますよ」

「はいは、一度で結構でござる」

「ふっふっふっ、ものの弾みにござりますが、以後は、とくと留意いたしましょう」


 何度も売ったつもりのけんかを一向に買ってもらえぬとあっては、さすがの知恵も威勢よく振り上げた拳の降ろしどころが見つからぬ。仕方なく手をおろし、全身漆黒の鉄扇のひたいにあざやかに浮き出ている乱流星の白斑模様を撫でてやっていると、



 ――くふ~ん。



 鉄扇より三寸ほど体高の高い牡馬の霧笛が、ごく控え目に飼い主の愛を催促する。

「よしよし、おまえも甘えたくなったのか。たれに似たのか、影響され易い性質ではあるな」言外に可笑しみを漂わせた欣之助も霧笛の大流星の鼻梁白を撫でてやった。




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