第65話 西国に変あらば宜しく意を東国に注ぐべし
ひとしきり啜り泣いた隠居侍は、気を取り直して、自ら次の話題を提供し始めた。
「ご実兄の大猷院(家光)さまのご期待によくお応えし、中央仕置きの補佐にも余念のない殿さまであられたがゆえに、最愛の奥方さまの喪に服す間もないほど忙しく、そこへさらに島原の乱が起きたときのご心中には拝察して余りあるものがござった」
大猷院さまは、遠い九州島原の鎮圧の名代に、肥後守さまを指名されるであろう。
大方の予想を裏ぎり、肥後守は急ぎ国許の山形へ帰ると、東国の備えに当たった。
「対応を誤れば大変な事態になる騒動の鎮圧に、大猷院さまがご自分の名代として、弟の肥後守さまではなく、知恵伊豆の異名を取る松平伊豆守信綱を当てられたのは、如何なる理由か、お分かりかな?」隠居侍はいたずらっぽい目を、欣之助に放った。
「いやあ、浅学にて……」欣之助が頭を掻くと、「ご祖父・東照大権現さまのご遺訓『西国に変あらば宜しく意を東国に注ぐべし』を忠実に守られたからじゃ。どうじゃな、まことにもってよい話でござろうが」老いの頬を染めた隠居侍は得意気である。
本当に本当か? 肥後守に重責を任せるのはまだ早いと、大猷院さまが冷静に判断されたからではないのか。どうもご家中には何事も美談として伝わる傾向が強そうなゆえ、話をそのまま受け取らぬほうがよさそうじゃ。知恵のなかの天邪鬼が囁いた。
――天下をご采配される御公儀である。
如何な身内とて甘くはあられまい。
目の前の小娘がさような生意気を考えていようとは思ってもみぬ隠居侍は、自らがじゃらじゃらと掻き鳴らした「肥後守讃」に、ますます酔いしれてまいったもよう。
*
「国許での殿さまのご采配はそれは見事であられた。この年は全国的な飢饉に見舞われたのじゃが、先手先手の窮民対策を講じてくださった山形ばかりは、ただのひとりも餓死者を出さずに済んだのは、ひとえに殿さまの卓抜なるお仕置きのおかげじゃ」
「さすがは肥後守さまでございますね~」
欣之助はいたって素直に首肯している。
「地道に積んだご業績の結果、この年、殿さまは晴れて御公儀の一門に加えられた。これにより、山形保科家は尾張、紀伊、水戸の徳川御三家に次ぐ第四位の家格にまで昇格されたのじゃ。ご仕官申し上げる拙者どもも、いたって鼻が高うござったわい」
「申し上げては何でございますが、台徳院(秀忠)さまには父の名乗りも挙げていただけなかった肥後守さまにとって、まさに記念すべき年になったのでございますね」
いまにも袖を絞らんばかりの隠居侍の大感激を、欣之助はさらりと受けてやる。
「同時にな、ここがわが殿さまのすこぶるご立派なところなのじゃが、保科家代々のご家宝……たとえば東照大権現さまからの感状二通、刀剣二振り、ご系図等々をな、ご養父の弟君・保科弾正忠正貞さまにお譲りになったのじゃ。そのおかげで、のちに弾正忠さまは、上総飯野領一万七千石(のち二万石)を立領されたのじゃからのう」
やっぱり?! すぐさま知恵が思ったのは、その一件は、肥後守さま自らの善行にあらず、実は大猷院さまからさように厳命されたのだと聞き知っていたからだった。
うがった見方をすれば、ご養家の家宝への肥後守さまの執着を大猷院さまが見兼ねたと、さような事情がうかがわれはすまいか。二兎を得ようとは欲深すぎるし……。
とそのとき、隠居侍が、突如、大きな欠伸をした。目が黄色く濁って精気がない。
「いささか喋り過ぎたようじゃ。年寄りは集中が利かぬゆえ、許されよ。この先の話は、長年、奥御殿で奥女中をつとめていた、梅干し婆さんにでも聞かれるがよい」
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