第64話 奥方・於菊ノ方さまの早逝を惜しむ




「では、みながみな、肥後守さまを心からお慕いしていたわけではないとか?」

 興が乗って来た証拠の欣之助の語尾端折り癖を、知恵は面白く観察していた。


「いや、さように断定されては困る。正直、拙者とて、まあ、あれですわい、お身体のお具合にもよったとは思いますれど、うっかりすると、とてつもなく見当ちがいな癇癪玉が飛んで来た左京亮さまより、なんぼか、お仕えし易かったか知れませぬわ」

 奥歯に物が挟まった物言いを、隠居侍は敢えて正そうとせぬ。



 ――仕える側の面従腹背は、何処も同じじゃな。



 自身を顧みて、知恵は首を竦めた。

「ところで、肥後守さまは、さほどに長くはご当地にご滞留されなかったのでは?」

 欣之助が振った鈴に、隠居侍は易々と食い付いてくれる。


「さようにござる。拠って、拙者は、殿さまに関しては詳しくは存じ上げぬと申したほうがよろしかろう。ご城代のご家老さまが殿さまの如きものでござったからのう」「逆に、遠くにおられたからこそ、見ぬもの清しという状況も生じたのでは?」



 ――いやいや。さすがに突っこみ過ぎではなかろうか。



 さして高潔とも思えぬ隠居侍から尾鰭が付いた噂が広まれば、欣之助どのの立場が危うくなるのでは……案じつつ知恵はすっかり女房気取りの自分が可笑しくもある。


「だが、肥後守さまにはお気の毒な事態が待ち受けておられた」

 なにを思うてか、うまい具合に隠居侍は話を変えてくれた。


「如何様な?」「奥方の於菊ノ方さまがな、十八歳の若さで亡くなられたのじゃわ。訃報を聞いたときの衝撃は忘れぬ。評判の別嬪の奥方さまでいらしたからのう。短い新婚生活のあいだは、ずっと江戸屋敷にお住まいで、国許の拙者どもは一度もお目にかかった記憶はなかったが、太陽が沈んだように、家中は嘆き悲しんだものじゃ」

 つい昨日のことのような隠居侍の哀哭に、知恵も欣之助も相槌の打ち様がない。




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