第56話 薬問屋・百草軒に元奥女中を訪ねる
追い立てられるようにして表へ出ると「もうさんざんに待ちくたびれましたよ~。いったいぜんたい何をなさっていたんですか? おふたりとも」と抗議するように、馬繋ぎ場の鉄扇と霧笛が、ほぼ同時に、甲高い
「ごめんごめん。何しろ、お年寄りは話が長くてねえ。なかなか、きっかけが……」くどくど弁解しながら、知恵は愛しい鉄扇の髭だらけの顎を柔らかに撫でてやった。
すると、鼻息も荒く不満を訴える霧笛の逞しい
*
帰り際にご隠居が紹介してくれた薬問屋・百草軒は、曲物問屋・桝屋より数軒ほど西にくだった街道添いにあった。呉服問屋、履物問屋、書物問屋も軒を並べている。
「本草」「葛根湯」「木曽百草丸」の白文字が染め抜かれた藍暖簾を潜ると、ぷんと薬臭い匂いが鼻を突く。飾り棚に薬草が並ぶ店内を抜けた裏庭に平屋の別棟がある。ついに嫁がず終わった元奥女中は主の大叔母として大事にしてもらっているらしい。
「お初にお目にかからせていただきます。桝屋のご隠居さまからご紹介をいただきました」まず知恵が口上を述べると、汁椀ほどの小顔に往年の気品を滲ませた老婆は、
「別段、紹介される筋合いなど、思い当たらぬのだが……」露骨な嫌悪感を示した。
飼い猫の膝枕を半ば本気でうらやんでみせた一件が、素早く知恵の脳裡を過ぎる。
そう思って目の前の老婆をあらためて観察すると、いまでもこうなのだから、若いころはどんなに別嬪であったろうと思われるほど、まことに愛らしい顔立ちである。
――ははぁん。さてはご隠居、厚かましく言い寄って、言下に振られたと見える。
小さな城下町にもそれなりの愛憎模様が描かれている事実が知恵には面白かった。
「で、わたくしに何を話せと?」雛人形の如き老婆の口説は簡潔を旨とするらしい。
「奥御殿で見聞された事物の一端なりとも……もちろん、差しつかえない範囲にて」
「見損のうてもろうては、困るぞえ。いまどきのお若い衆は承知せぬやも知れぬが、お城勤めは他言無用が大原則じゃ。立場上で知り得た事柄は墓場に持ちこむのが掟。わたくしの如き頑固者はたとえ
厳然と言い放った老婆は、色素の薄い唇をぎゅっと真一文字に引き結ぶ。木目込み人形の如き漆黒の目にも太い針を含ませ、まるで親の仇のように知恵を睨みつける。
――あちゃあ、いきなりの
狼狽えて首を竦めた知恵に、すかさず欣之助が助け船を出してくれた。
「大勢の女子衆から選ばれてご奉公に上がられた御身、いたってお口がお堅い仕儀は十分に承知いたしております。拙者どもはただ、ご幼少の肥後守さまが如何に幸福な日々を送られたか貴重なお話を伺えればと、かように思うて参ったのでござります」
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