第55話 松平姓ならびに葵の御紋のご辞退
「肥後守さまの生涯が大きく転換されたのは、寛永十三年、二十六歳の夏であった。七月二十一日、出羽山形二十万石へ転封のお達しが、御公儀から発せられたのじゃ。このとき、畏れ多くも大猷院さまより、松平の姓並びに葵の御紋のご拝領を仰せ付けられたのじゃが、生来ご無欲な肥後守さまは、極めて潔くご辞退されたのじゃわ」
――幼少時より保科肥後守の養子として迎えていただいた拙者が、いまさら家名と家紋を変更しては、黄泉の養父に義理が立ちませぬ。また、拙者の家来共は何れも、信濃育ちの武骨実体の者共につき、家名を改めれば志を違える仕儀となりましょう。
奥羽鎮定のため出羽山形への移封をご拝命賜りましたのに、万一君臣の問題が生じれば申し訳が立ちませぬ。保科の姓と角九曜紋を保持させていただきとう存じます。
そのように申し出て固辞された件は、知恵も仄聞していた。
またしても大向こうから「いよっ!」と声がかかりそうな完璧な申し開きぶりに、「さすがは、わが殿」と称賛の声が鳴りやまぬし、さすがの知恵も突っこみ用がないのではあるが、正直なところ、あまりに立派に過ぎて、いささか鼻白まぬでもない。
大勢に混じって肥後守への賞賛を口にする家来衆の内にも「一度は松平姓に仕えてみたかったのに……」と、内心ではひそかに残念がった者どももおったやも知れぬ。
ちなみに、東照大権現さまご出自の松平姓の名乗りが許されるのは、次の三通り。
一、東照大権現さまのご子孫の内で徳川姓を名乗らぬ家。
二、東照大権現さま以前からつづく松平氏の子孫。
三、直接の血縁はないが、忠義の褒賞として松平姓を許可された家(前田氏、伊達氏、島津氏、毛利氏、黒田氏、浅野氏、鍋島氏、池田氏、蜂須賀氏、山内氏、堀氏、蒲生氏、中村氏、依田氏、大須賀氏、戸田氏、松井氏、大河内氏、鷹司氏)。
「結局、肥後守さまが当地にお暮らしになったのは元和三年(一六一七)十一月から寛永十三年(一六三六)七月まで、七歳から二十六歳の十九年間であられたのじゃ」
さあ、これで結びじゃというように締め括ったご隠居は、生白い手をひらひらさせ「いささか喋り過ぎたようじゃ。城内の状況を知りたければ、この先の薬問屋の隠居婆さんを訪ねるがよい。幸松さまが養子に来られた当時、奥方さまのお傍近くにお仕えしておったはずじゃから、身共には察知し得ぬ仔細も聞けるやも知れぬ。ではでは手前はこれにて」覚束ない所作で腰を上げると、客が帰るのも待たずに厠へ急いだ。
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