第54話 兄・家光との親交&結婚のこと




 茶の飲み過ぎで尿意を催したのか(笑)ご隠居の語り口は、やや性急になった。

「それよりなんといっても大事なのは、御公儀との由縁じゃよ。高遠領を後継されたこの年の十二月、兄君の大猷院(家光)さまが初めて弟君の存在を知られたのじゃ」


 経緯は知恵も承知していた。鷹狩りの折りか何かに、たまたまご生母の浄光院さまが帰依されている寺院に立ち寄られた大猷院さまが、家臣に成り済まして住職と四方山話を聞いているとき、にあって人知れず成長した弟がいる事実を知った……。


 そのときから肥後守さまの運が開けたのだから、まさに子を想う母の一念じゃな。

 まあ、あれじゃわ。偶然と言うにはいささか出来過ぎた感がないでもないが……。

 あまりにも有名な逸話を、知恵はさように受け留めていた。


 長時間の拘束に疲労の翳が見えるご隠居の話は、いきおい、梗概的になって来る。

「寛永九年一月二十四日、台徳院(秀忠)さまがご逝去された(享年五十三)。お気の毒にも二十二歳に成長されていた肥後守さまは、ついに父子の対面をなされぬままの永の別れとなられた。一方、無情にも肥後守さまのご出産以来、ただの一度としてご再会が適わなかったお静さまは、落飾されて浄光院を号された」


 んまあ。如何な公方さまとはいえ、ご自分の仕出かされた結末は、きちんと付けて身罷られるべきであったろうに……。戯れにお手付きなさったお静さまのお気持ちを顧みられるお心持ちとてなかったのだろうか。聞いている知恵は憤懣やるかたない。


 かたや、語り部のご隠居は、御公儀への私見は不忠であると信じているらしい。

「母君の信仰のおかげで、当代随一の実力者であられる兄君の知遇を得られた肥後守さまは、この年四月、東照大権現(家康)さまの十七回忌に際し、日光東照宮に参拝するご光栄に浴され、太刀白銀を奉納された。暮れには従四位下にご昇任なさった」


「いよいよ芽が出て来られたのでございますな。まことにもって結構な仕儀にござりまする」弾んで相槌を打ったのは、沈黙していた欣之助だったので、知恵は驚いた。




      *




 おかげですっかり気をよくしたご隠居は、張りきり直し、もうひと踏ん張りする。

「寛永十年二月十五日、二十三歳にお成りの肥後守さまは大猷院さまのご采配により和田倉門内に九千五百坪の上屋敷を賜られた。でな……さてさて、ここがまた抜きん出て肥後守さまのご立派なところなのじゃが、旧邸となった鍛冶橋の保科屋敷はな、まことに気前よく、ご養父の異母弟・保科弾正忠さまにお譲りになったのじゃよ」



 ――え、至極当たり前でしょう。あれもこれもと欲張ったら、天罰が当たるもの。



「そして、この年の十月六日、肥後守さまは晴れて奥方を娶られたのじゃ。お相手は磐城平領主・内藤左馬助さまのご息女・菊姫さまであられた。そのう……残念ながら手前はご尊顔の拝見が適わなかったが、それはそれはお美しい方だったそうじゃよ」一世一代の不覚とばかりに、ご隠居は口惜しげに唇の端を歪めている。


「ご結婚を機に、兄君・大猷院さまとのご厚誼はさらに深まられた。寛永十一年には江戸城に招かれ、公方さま御自らが茶を点じてもてなしてくださったり、明正帝さまの御即位の祝賀にもご同道を命じられ、帝のご拝顔を得て天盃を受けられ、さらには侍従に任ぜられるなど、まことにもって光栄なご事績を相次いで重ねられたのじゃ」


 頂点に立つ孤独はよく取り沙汰されるが、江戸城内の複雑な勢力図とも相俟って、すぐ下の弟・駿河大納言さまと犬猿の仲だった大猷院さまもまた、内面は至って孤独だったに違いない。うれしげに茶をもてなす大猷院さまのお姿を知恵は思い描いた。


 脳裡に思い描くたれかれ問わずに心を寄せたくなるのは、われながら八方美人めいてはいるが、胸底から湧き上がる素直な心情ゆえ、自分でも如何ともしがたいのだ。


 痩けた頬に疲れを滲ませながら、ご隠居は語り急ぐ。

「その年の十二月にはご長男が誕生し、ご自身と同じ幸松と名付けられた肥後守さまだったが、禍福は糾える縄の如しの諺にたがわず、翌十二年九月十七日には、ご生母のお静さまがご逝去された(享年五十一)。最愛の母君を亡くされた肥後守さまは、深い悲しみに打ち暮れながら、当地の長遠寺(のち浄光寺)に手厚く埋葬された」


 父君にまったく顧みられず、世知辛い娑婆を母子二人、手に手を取り合って生きて来られた肥後守さまのご悲哀には、他者の計り知れぬものがあられたにちがいない。

知恵が厳かに瞑目すると、傍らの欣之助も殊勝げな横顔を見せて、静かに合掌する。




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