第4話 「左京衆」が生まれた由来





 ご生母の静さまに連れられて江戸を発たれたのは三歳のときで、多感な少青年期を過ごされ、のち第二代藩主を継がれた殿さまに、高遠は実質的な故郷に当たられる。


 その大切な故郷を離れ、はるかに遠い出羽への移封に際し、幼少のみぎりから忠誠を尽くしてくれたご家来衆を大事になさったことは、人情として当然であったろう。会津への再転封に際しても譜代を尊ぶ心情に少しの揺るぎもあろうはずがなかった。


 そのことは家中にあまねく伝わり、いつとはなしに譜代の家来衆は「高遠以来」と呼ばれるようになり、ご家中でも特別な敬意を持って遇されるようになっていった。


 かたや、出羽山形の先代藩主・鳥居左京亮忠恒は「末期養子の禁令」に背いた科で肥後守と入れ替わりに信濃高遠三万石に格下転封(藩主は弟・忠春)されたが、出羽山形の城域に比すれば格段に狭い高遠には全家臣を養うだけの余裕がなかったので、やむを得ず山形に居残ったご家臣たちは便宜上「左京衆」と呼ばれるようになった。


 生まれついて苦難を背負われた半生は自ずから人徳を磨かずにおかなかったものと見え、若くして名君の名をほしいままにされていた肥後守さまは、成り行きから外様に甘んじることになった「左京衆」が肩身の狭い思いをせぬよう配慮を尽くされた。


 そうした一連の事実を「高遠以来」「左京衆」双方が承知しているはずだったが、上に立つ方の気持ちが必ずしも下々まで隈なく行き渡るわけではないのもまた人の世の常で、老侍医の例に見るような寒々しい現実も、厳然と横たわっているのだった。




      *




 図らずもそれを証明するかのように、胴長に付く短足を恐れげもなく進み出させた老侍医は、先刻の醜態などなかったかのようにいかめしげな口上を述べ始めていた。

     

「殿さまに謹んで申し上げます。拙医の診立てによりますれば、媛姫さまのご急逝の因は猛毒を有する鳥兜にあるものと判じられます。他の毒物ではかように急激な症状を辿るはずがございませぬゆえ、まずもって拙医の診立てに間違いなかろうと……」


 とっくに因を見抜いていた知恵は、もったいぶった言辞が滑稽であり、癪に触りもしたが、恐ろしい事態に打ち震える奥女中衆に紛れ、素知らぬ顔をうつむけていた。




      *




 老侍医の裁可を受け、ただちに肥後守さまご自身による取り調べが開始された。


 前の公方さま(家光)直々のご指名により武門として最高の栄誉とされる烏帽子親をつとめられた、ご当代さま(家綱)の名補佐役として、さらには、国許の家老たちから寄せられる諸問題に対し、理に適い、なおかつ温情あふれるご裁可をくだされる地方仕置きの名棟梁として、温厚篤実にして公正高潔、非の打ちどころがない立派なご人格は、江戸及び国許の上から下まであまねく知れ渡っていたが、このたびばかりは事が事であるがゆえ、常にない混乱ぶりは、その場のだれの目にも明らかだった。





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