第58話 養母・遥聯院と生母・浄光院との確執
「殿さまご夫妻は、部屋子扱いの甥・左源太さまをご養子にお迎えになるお心づもりでいらした。なのに、突然、別口が、それもお断わりしようのない状況で舞いこんで来た。これではお心持ちの平らかであられようはずがない。な、さようであろう?」
「なれど、公方さまのお子です、保科家にとってもわるい話ではなかったのでは?」
気を許した欣之助の率直な突っこみに、老婆はかすかに気色ばんで「極めてご聡明なように見えて、さすがにお若い。考えてもご覧なされ。さように簡単に損得勘定が決する話ではございますまい。殿さまご夫妻にしてみれば、本音では有難迷惑な養子を厚遇したはいいが、いつなんどき御公儀に連れもどされるか分からぬのだし……」
そもそも、見性院さまは保科家の事情をご存知なかったのだろうか。それとも些末な事情など与するに能わずという仕儀なるか。いずれにしても罪作りな話ではある。
知恵の思案をよそに、老婆の話題は奥方のご心情にもどっている。
「何はともあれ、公方さまの大事なお胤をお預かりする以上は、ゆめゆめ粗略な扱いなど許されようはずもござらぬゆえ、幸松さま母子に対面される奥方さまは、いつも穏やかな笑顔を絶やさぬように心がけておられたわい。少なくとも表面的にはのう」
「ところで、奥方さまと浄光院さまのお歳は、如何ほど離れておられたのですか?」
またしても欣之助が訊きにくい問いを口にしたので、知恵は内心で拍手を送る。
「さてと……奥方さまが浄光院さまより、ひとまわりほど上でいらしたはずじじゃ」
――すると、女同士の葛藤は、ますます面倒にして深刻であったろう。
遥聯院さまは、長谷寺さま(真田昌幸)のご息女としての気位が高いお方と伺っている。保科家へ来てからも、真田家の家紋・六文銭を後生大事にしておられたとか。権高い奥方さまの目には、どこの馬の骨とも知れぬ阿婆擦れが色仕掛けで公方さまを誘惑し、まんまとお子胤を宿しおった……としか映らなかったやも知れぬ。なのに、なにゆえに、このわたくしが面倒を見ねばならぬ、と思われても不思議はあるまい。
*
知恵の思案をよそに、老婆の話はいよいよ核心に入ったもよう。
「常なる笑顔を心がけておいででも、目ばかりは嘘を吐けぬ。幸松さま母子をご覧になる奥方さまのご双眸には、決まって建て付けのわるい雨戸が立っておいでだった」
「目は口ほどにと申しますから、当然、嫌悪の情は相手方にも伝わりましょうねえ」
いまや絶好の話し相手となった欣之助が合いの手を入れると、老婆は深々首肯する。
「なれど至ってご聡明な質ゆえ、幸松さまは健気にご養母を立てておいでじゃった。孤立無援のご生母のためになる状況を、少年ながらよく承知しておられたのじゃな」
にわかに涙声になった老婆は、皺ばんだ目頭に袂を押し当てる。
「まったくお健気な……。で、ご養父の肥後守さまは如何様に?」
欣之助の尻切れ蜻蛉癖に、老婆はすっかり慣れたものと見える。
「殿さまはな、至って丁重に接しておられたわ。幸松どのと呼んで一人前の大人扱いをされ、自ら西ノ丸に出向き、ご機嫌伺いを欠かされなんだ。奥方さまはともかく、殿さまは、公方さまの若君をお育て申し上げるという態度を、最後まで貫かれたわ」
養子の幸松さまに冷やかな眼差しを注ぎつづけたご養母と、すべては御家のためとわりきり、したにも置かぬ処遇を貫かれたご養父……。針の筵のご生母と、義理ある養父母のあいだで、繊細な少年の心は如何様に激しく揺さぶられつづけたであろう。
話し疲れた老婆の顔は黒ずみ、細い鼻梁の両脇の翳がひときわ濃度を増している。
これだけお聞きすればもう十分でございましょう。そろそろお
名残り惜しげに(むろん欣之助のみに)見送る老婆に丁重な礼を述べて表に出た。
百草軒の馬繋ぎ場で長い首をゆらゆら遊ばせていた鉄扇と霧笛が「またしても長尻ですか? そのうちに障子に箒を立てられますからね」とでも言いたげなようすで、「ぶひ~ん」「ふひ~ん」呆れたような溜息を同時に漏らした。こちらも阿吽で。
*
ところで――
ここで思いがけぬひと騒動が勃発した。(笑)
「ああ、さすがに疲れ申した。なんだか茜さまの湯漬けが食べたくなりましたなあ」
緊張から解放され不用意に漏らした欣之助のひと言が、知恵の癇にさわったのだ。
「はあ? なにゆえに義姉さまの湯漬けを……さてはきんちゃん、懸想してんの?」
「ま、まさか! 誤解でござる。なぜかにわかに、ふとあの味を思い出しただけで」
「ふん、どうだか分かるものですか。あなたって人は案外なところがありますから」
「これこれ知恵どの、おかしな悋気を見せたら鉄扇と霧笛が歯を剥いて笑いますぞ」
まさか?! かたわらを見やれば、あろうことか、鉄扇と霧笛がそろって長い歯茎を見せ、可笑しいねとばかりに鼻孔を広げ合っているのであった。やれやれ。(^-^;
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