第90話 よもや肥後守も承知の座敷牢劇だったとは……
翌八月十二日の亥の刻。
知恵と欣之助は保科屋敷の座敷牢の天井裏に潜んでいた。
如何な
世にも奇妙な夫婦の会話に、天井裏のふたりは耳をそばだてる。
「室よ、許せ。かような場所に押しこめる仕儀、まことにもって痛恨の極みである」
「なんのなんの、お気遣いなく。わたくしは殿のお役に立てれば本望でございます」
声を潜めた短いやり取りにも、互いへの慈しみが
媛姫さまが誤って毒殺されたその現場で、まさに怒髪天を突く肥後守の憤激を目の当たりにしただけに、眼下で繰り広げられている正反対の情景がにわかに信じ難い。
知恵の横で息を潜める欣之助も吃驚している。名のある大名でも格式ある正室でもない、ただの夫婦にもどったふたりは、闇を透かすように互いを見詰め合っている。
「罪なき身をみなの前で徹底的に貶めたわしを、室はさぞや深く恨んでおろうな?」
自らの指示で座敷牢に押しこめた妻への懺悔は、消え入りそうに窄まってゆく。
「ご詮議のお口とは裏腹に、お目から発せられたお言葉を明確に把握いたしましたがゆえに、一瞬ですべてをお受けする覚悟ができました。ご心配ご無用にございます」
平静と変わらぬ口調の於万ノ方さまは、母親の如くやわらかに夫を諭している。
「相済まぬ。悪逆非道な輩に足許を探られ口惜しい限りではあるが、保科家を守り、さらに上様をお守りするため、そなたに罪を被りつづけてもらわねばならぬのじゃ」
肥後守さまの苦渋に満ちた声音と対照的に、於万ノ方さまは淡々と応じている。
「ことごとく承知でございます。殿、もはや、これ以上はなにもおっしゃいますな」
「なれど、後の世までそなたの名が残るのじゃぞ。それも稀代の悪女としてな……」
――いったい、如何なる仕儀じゃ?!:;(∩´﹏`∩);:
まさかのことに、無実が明白な奥方さまを殿さまは見捨てようとでも?
知恵には事態が呑みこめぬが、於万ノ方さまは巌の如くに動じられぬ。
「わたくしは、殿と子どもたちが分かってくだされば、それで十分にございます」
「少なくとも家老どもには、真実を話しておくつもりじゃ。せめてもの償いにのう」
肥後守さまの断固たる約束に、於万ノ方さまのお声も自ずから明るむ。
「おやさしきご配意、まことにかたじけのう存じます。ただ、くれぐれも本末転倒になられぬようご留意くださいませ。迂闊に話が漏れては元も子もございませぬゆえ」
「相分かった。むろん於縫には第一に悟られぬよう、よくよく留意いたす所存じゃ」
――してみると……ご夫妻そろって、とうに事の真相をご存知でいらしたのか。
探索旅に赴く前にお聞きした於万ノ方さまのご述懐は、妻として嘘偽りのない本音にはちがいなかったろうが、いまにして思えば、あれは老女・梅本や三人の幼いお子さま方への意図的な口説でもあられたのか。敵を欺くにはまず味方からと申すゆえ。
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