第6話 侍あがりの老厨房人
まず嫌疑をかけられたのは、行きがかり上から当然ながら
藍染の前垂れすがたのまま、ご詮議の広間に引っ立てられて来た老厨房人もまた、生まれついて後ろ盾を持たぬ肥後守が頼みとする「高遠以来」の有力な武士である。
だが、いまは出自云々を言っている場合ではなく、それどころかむしろ老厨房人は積年の恩を忘れた不埒者の代表として、殿さまの怒りを一身に浴びる立場にあった。
「
ひたすら吼える殿さまはいまや「蔭の副将軍」でも「天下の名君」でもなかった。
領主ほかの立場をいっさいかなぐり捨て、ただひたすらわが子を想う父親として、子恋の夜叉に成りきった肥後守は、屈強な近習衆に組み伏せられて、頼りない白髪の先まで恐怖に慄かせている老厨房人に向かって忿怒のかぎりに、おんおんと吼える。
――引く手数多の内外のお仕置きにかまけ、お家のことやお子さま方のことは奥方さまに任せっぱなしと思うておったが、いざとなれば、やはり父親であられるのだ。
目立たぬ隅の方で首を竦めている知恵は、厳粛な感懐に打たれずにいられない。
「よいか、わしへの不満は、このわしに申せ。間違っても、か弱き者にぶつけるな。うぬっ、この恨み、きっと晴らさでおくものか。そなた自身の成敗はもとより、家族から係累の端々に至るまで一網打尽に引っ捕え、ことごとく
いまだ事件の真相も解明されていないというのに、自身が放つ怒声でいっそう自身を煽り立てるように吼え出した殿さまの咆哮は留まるところを知らない様子だった。
*
一方、「磔」と聞いたとたん、老厨房人は枯れ木のような四肢をびくんとさせた。
いまを去る二十年前、隣国・出羽白石で勃発した百姓一揆に際し、首謀者三十六名とその家族を捕縛し、有無を言わさず全員を厳罰に処した一件はよく知られている。
温厚篤実が
ぴしゃりと蝿叩きで潰されたような老厨房人の胸中を、知恵はそう推察していた。
幼時からの
――仲秋の満月のごとく寸分の曇りもない公明正大な裁きで知られる殿さまのお心にも、ときには不穏な雲がかかる夜半があったとしてもふしぎはない。人の心の曰く言い難い微妙な趣きもまた
「殿。どうかそれだけは……それだけはご容赦くださいませ。拙者はともかくとして身内には何の科もございませぬゆえ、身内までお咎めとは、どうかそれだけは……」
恐怖という名の大きな塊をごろんと吐き出すように、老厨房人が喉にからんだ声を絞り出すと、眉間に青筋を立てた肥後守は、如月の枯野のように乾いた声を立てた。
「ふむ、あっさり白状しおったな。申すに事欠くとはこのことじゃ。よかろう。望みどおり即座に厳罰に処してくれる。自慢の厨房で、首でも洗って待つがよいわっ!」
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