第7話 くノ一・知恵の早業





 取り付く島もない殿さまに向け、老厨房人はさらなる詫びを乞うかと思いきや……じつはさにあらず、折れるほど曲げていた首を蛇の首のようにゆるゆる持ち上げた。


 ――ん? 意外に凄味がある面貌じゃな。($・・)/~~~


 もともとは武士の出自だが、卓抜な包丁捌きの腕を買われて厨房を任されるようになったと聞いていたが、さてはこやつ、かつては相当な武芸者だったにちがいない。


「畏れながら、拙者、決して身に覚えとてない悪事を認めたわけではございませぬ。この際、率直に申し上げますが、こたびはいささか飛躍の度が過ぎるように思われる殿のお話が、いきなり拙者の身内にも及びましたゆえ……殿にとって亡き媛姫さまがお命より大事なのと同様に、拙者にとりましても、わが家族はわが命にございます」


 年長者らしく、老厨房人は噛んで含めるように異を申し立てる。

 果たして、肥後守の激昂は治まるどころか、さらにいや増した。


「ええい、黙れ、黙れい! なれば訊くぞ、わしが命と承知しておる姫を殺めるとは如何なる仕儀なるぞ。煤竈に巣食う古狸めが、口先三寸で巧妙に言いくるめようとてそうはさせぬ。よいか、先に手を出したのはそのほうであるからして復讐は至極当然の道理である。よいな。順番を忘れてはならぬぞ、物事の順番というものをなっ!」




      *




 なにやら事態は子どもの喧嘩めいて来たようだ。

 度外れた怒りと悲しみに翻弄された殿さまは、ご自身を見失っておられる。

 逆に、さすがは年の功、老厨房人は早くも平常心を取りもどしつつあるらしい。


「殿。いまさらではございますれども、拙者は殿がご先代さまより高遠を襲封されてから今日まで、ひたすら殿ひと筋にお仕えして参ったつもりにございます。至らぬ身をおそば近くお仕えさせていただくご厚情に心からの感謝を申し上げこそすれ、ただの一度たりとも、よこしまな考えをわが胸に忍びこませた事実はございませぬ」


 肥後守にとも、自身の胸にとも、あるいは、その場にいる全員にともなく恬淡と語り終えた老厨房人の口調は、ひと呼吸置いたあと一気に凛然たる大絶叫に変わった。




      *




「なれど、いささかのお取り調べもなさらず一方的に拙者を下手人と決めつけられるのであれば、もはや殿は、拙者が心からお慕い申し上げる殿にはおわしませぬ。包丁一本を朋輩としてここまで生きて参った身、かような屈辱に遭わされようとはついぞ思いもいたしませなんだゆえ、拙者、この場でわが腹を掻っ切って死にまする!」


 啖呵めいた口上を述べ終えるなり、ふところから真新しい晒木綿を巻いた出刃包丁を取り出すと、藍染めの前垂れを荒々しく取り払い、がばっと音させて胸を広げた。


 思いがけぬ猛反撃に気を呑まれてか、しばらく立ち尽くして沈黙していた殿さまも、不気味な布の擦過音を間近に聞き、初めて容易ならざる事態に気づいたらしい。


「ま、待ていっ! 早まるでない。な、なにも、そなたが下手人だとは申しておらぬではないか」


 ――え、うそ。いまさっきまで、そう言っていたくせに。(。-`ω-)


 内心で知恵が反駁していると、老厨房人は悠揚迫らず、堂々と殿さまに宣言する。


「いいえ、待てませぬ。及ばずながら拙者、頑固一徹を信条にここまで生きてまいりました。たとえこの身は山形にあっても会津にあっても、誇りある信濃武士たるものひとたび決めたことを、おめおめと撤回なんぞできましょうか。なれば、いざ……」


 言い終わらぬうちに、早くも出刃包丁の切っ先を自身の腹に近付けている。


「よせっ、よさぬかーっ!」

 肥後守が大絶叫を発する。

 老人が鞠のように転がる。

 すべてがほぼ同時だった。


 だれか分からぬが両者に即座に体当たりを食らわせた早業に、どっと座が弾ける。


 ――おおっと、これはいかぬいかぬ。決して人目に立ってはならぬと、気を付けておったつもりなのに修羅場を前にして血が反応してしまった。早いところ退散退散。


 袂で顔を隠した知恵は、そそくさと若紫の矢飛白やがすりの群れに溶けこんでいた。





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