第2話 十七歳の人妻・媛姫の受難





 いまから三年前、長女・媛姫はるひめは出羽米沢藩上杉定勝の嫡男・綱勝に嫁いでいた。


 といっても、日常の暮らしは江戸屋敷同士のことゆえ、平素は気軽な衣装で婚家と生家を往来して来たのだが、国許で生まれ育った異母妹・松姫が加賀藩主・前田綱紀に嫁すに当たり身内だけの前祝いが行われる本日ばかりはハレの装いを作っていた。


 白砂青松に丹頂鶴が舞う清冽な絵もよう、豪奢な縁起物の絽の小袖をまとい、会津から初めて江戸へ出て来た七歳下の妹の慶賀を言祝ぐべくいかにも楽しげに振舞っていたはずだったが……その華麗な刺繍の小袖はいまや大量の吐瀉物にまみれている。



 ――ひ、姫を……早く、別室へ!! :;(∩´﹏`∩);:



 顔面を引きつらせた肥後守が、幽鬼を見た女童めわらわのように戦慄わななきながら命じると、屈強な近習衆が駆け寄り、苦しげに身をよじる媛姫を抱えて奥座敷へ運びこむ。


 母君・於万ノ方さまが愛娘の肢体を縛る金糸銀糸の縫い取りの帯を手早く解いて、甚三紅じんざもみの襦袢ひとつの華奢な肢体を侍女が延べた床にそっと寝かせて差し上げる。


 が、つぎの瞬間、媛姫は発条ばね仕掛けの人形のように素早く飛び起きると、団子虫のように背を丸め、細く、白く、清廉な肢体を二つ折りにして、ふたたび激しく嘔吐えずき始めた。あまりにも凄絶な発作に、その場のだれも手を出しかねているもよう。


 遅ればせに老侍医も駆けつけて来たが、しわに埋もれた金壺眼にはた目にも並々と困惑の色をみなぎらせ、もとどりの緩んだ白髪の銀杏髷をいたずらに振り立てるばかり。


 食中しょくあたりなら、胃の腑の内容物を出しきりさえすれば、お楽になられるはず。神さま、仏さま、後生ですから、この罪のない可憐な姫さまをお助けくださいませ。

 全員の祈りもむなしく、刻一刻、媛姫の容体は悪化の一途をたどってゆくばかり。


 江戸住まいの大名の姫君のなかでも随一の別嬪と謳われた面立ちを幽鬼のようなあおぐろに変じさせた媛姫には、もはや悲鳴を発する力も残っていない様子で、棒のように硬直した身体を細かく痙攣させ、ぎりぎりと歯を食いしばって白目をむいている。


 現将軍家に最も近い大名とされる保科家の内情を探って親戚付き合いや領内経営に活かすべく、媛姫の嫁ぎ先・上杉家からひそかに送りこまれていたくノ一・知恵は、すさまじい発作の状況からして、媛姫さまのお苦しみの因は鳥兜とりかぶと中毒にちがいないと見て取っていたが、いまだ解毒法が解明されていないので手の施しようがない。



      *



 木と井草の香に満ちた千畳敷大広間にいた知恵が、およそ人間の口から発せられたものとは思えぬ絶叫を耳にしたときから三刻(一時間半)ばかりも経っただろうか。



 ――ヒー、ヒー、ヒー、ヒ……。💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧💧



 苦悶の痕跡を無惨に留めたまま、娘のような人妻・媛姫は儚くも逝ってしまった。

「媛姫!」「姉上さま!」「姫さま!」「無慈悲な!」みんながひしと取りすがる。


 三万坪の敷地に点在する森を棲み処とする千万の蝉が、厳かに弔問を奏で始めた。

 この目出度き日に……どこかにひそむ下手人以外には思ってもみない展開だった。





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