第11話 会津に定着した信濃蕎麦





 率直に詫びてもらった御台所奉行は、泣き濡らした顔を敢然ともち上げた。

 いまし方の痛憤とは打って変わった喜色が痩けた頬を明々と照らしている。


「殿。すりゃ、まことにございまするか? ご当家の御台所奉行は、拙者でなくてはつとまらぬとの仰せは。ははあ、まことにもって、ありがたき幸せにござりまする」



 ――はて? 殿さまは、さようなことまでは仰られなかったはずだが……。



 どさくさに紛れての自画自賛とは、この男、実はかなりの鉄面皮であるらしい。

 もっとも、剛毛の一本も生えぬ心ノ臓ではひと筋縄ではゆかぬ浮世は渡れまい。

 ことの一部始終を見届けていた知恵は、内心で呆れたり、感心したり、忙しい。


 望まれぬ子として誕生した肥後守は、御台所の悋気を恐れる実の父の命で生母ともども信濃に追いやられ、長じては高遠三万石の藩主の座に甘んじていたが、ひょんなことから前の公方さまの知るところとなり、以後、異母兄弟は篤い信頼で結ばれた。



 ――前の公方さま(家光)すなわち、実の兄の遺志により現在の公方さまのおそば近くにお仕えしているのであるから、せめて領内の仕置きは家臣で分担してほしい。



 媛姫さまご急逝の一大事が横道に逸れがちなのはご自身の取り乱しようのせいとはいえ、抗弁に苦渋を滲ませる肥後守の複雑な心情を知恵はそのように拝察していた。



      *




 冷静になった肥後守は話を元にもどし「御台所奉行、あらためて確認じゃが、本日の祝膳の食見で、そなたの身には、いっさいの異常があらわれなかったのじゃな?」


「はい、まったく。強いて申せば、拙者の舌には塩辛い皿や椀が多いように感じられはいたしましたが……。もっとも、ご当家のお料理は日頃から一事が万事、信濃風の濃い味付けで、醤油を煮詰めたうどんの汁など正直なところ食すに食せぬ代物……」


 いまだに興奮のただ中にある御台所奉行の口は制御が効かないようすだが、殿さまはその非礼にも立腹なさらず鷹揚に切り返し、それどころか故郷自慢を披瀝なさる。


「いやはや、これは一本取られたわ。だが、どうじゃな? 高遠から運んだ信濃蕎麦じゃが、こればかりはまさに絶品じゃろうて。天下に知られた信濃名物をこの会津の地にしっかりと根付かせた、その一点において、厨房人の功績はすこぶる高いぞよ」





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