第69話 いつの間にか人間・肥後守に寄り添っている知恵




 老婆はそれきり肥後守さまの采配がよかったともわるかったとも明らかにせぬ。

 自分自身で考えよと気に入りの若輩に教えるつもりだろうと、素直に納得する。


 となりの領地で起きた騒動の裁可を迫られた肥後守さまの心情は察して余りある。

 蜂起した民百姓どもが結託せぬよう、小分けにして城内へ誘いこみ、騙し討ち同然の捕縛を行ったとして、一部ではいまだ批難が鳴り止まぬ状況もよく承知していた。


 采配を揮う側は公正を心がけても、揮われる側はひとりひとり家族も親戚もいる。銘々の事情を忖度せぬ十把一絡げのご裁可が、恨みを残さぬわけには参らぬだろう。




      *




 閑話休題――。


 知恵と欣之助の探索から十二年後の寛文十年(一六七〇)、同地の東泉寺に「寛永白岩一揆の義民の供養碑」が建立された。二基の供養碑の頭部に刻まれた二本の縄目が祀られた科人とがにんの由来を後世まで示す仕儀となったのは皮肉なことだったという。


 さらに閑話休題――。


 寛文六年(一六六六)九月二十四日の夜、長門守は辻斬りで客死(享年六十九)。知らせを聞いた白岩の民百姓は「これぞ最上さまの祟りじゃ」と言い合ったという。




      *




 山場を越えた老婆の語り口は、すうっと簡潔になった。


「国許では白岩一揆騒動の真っ最中の六月二十七日、江戸屋敷では、故於菊ノ方さまの忘れ形見であるご長男・幸松さまが早逝された(享年四)。ご失意の肥後守さまが姉君の東福門院(徳川和子)さまに仕えていた於万ノ方さまを側室に迎えられたのはそれから半年後の時節であったかのう」


 ああ、ときとして、公と私とは、なぜ歩調を合わせたがるのであろうか。お身内のご不幸に涙をお見せになる仕儀も適わぬとは、これもまた、上つ方のご宿命か……。

 いつの間にか知恵は、主君ではなくひとりの人としての肥後守に寄り添っている。


「御公儀から浜御殿の西側に約三万坪の土地を賜ったのは、殿さまが三十歳におなりの寛永十六年九月二十六日であったな。翌十七年十二月四日、殿さまの第二子に当たられる、ご次男・正頼さまが誕生された。ご生母はご側室の於万ノ方さまじゃった」




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