第55話

 一陣の突風が海原を渡っていった。

 号泣していたシコメがふと我に返る。

「き、きたぞよ!」

「おぉ、まさに」

 シコメ水軍の面々が揃って上空を見上げる。

 いつの間にか船団の真上には、どす黒い黒雲が発生していた。


 上空ではすでに強い風が吹き荒れているらしく、黒雲はものすごい速さで攪拌されている。

 そのかたちは刻一刻と変幻し、龍のように飛翔したかと思うと、巨鯨のようにのたうち回る。

 数百の乗組員たちも、もはやコイチなどには構っておれず、固唾をのむような表情で天空を凝視している。

「お、おい、なにが起こるんだよ」

 異国人である裴洋はもちろん、この儀式の内容など知る由もない。

 ただただ異様な自然の現象に目を見張るだけだ。

「ご降臨なさるのじゃ、スサノオ様が」

 海面付近まで吹き降ろすようになってきた強風が小舟を揺さぶる。

 船縁を掴んでいないと、身を投げ出されそうになる。

「冗談じゃねーぞ!」


 上空の暴風は、無秩序な吹き荒れ方から、一定の方向に流れるようになった。

 それにつれ黒雲が渦を巻くように回り始める。

 その旋回速度は次第に増していき、ついには中央部分にぽっかりと穴が開いた。

 シコメが陶然とした表情でつぶやく。

「開いた。荒之根すさのねじゃ」


 極小の台風の目と表現すべきか、青空すらのぞける穴の中に、今度はなにか粒のようなものが誕生する。

 それもまた猛烈な勢いで回転しているようだった。

 粒は周囲の黒雲を取り込むようにして成長していき、見る見るうちに漏斗状の物体となる。

「お、おい、あれって」

 裴洋が怯えた表情で護に訴えかける。

「見ておけ、あれが――」

 裴洋が一瞬目を離した隙に、それはさらに成長していた。

 見た目はまるで、天空から垂れ下がる動物の尾っぽである。

荒之尾すさのお様だ」

「つーかどこが蛸だよ! 竜巻だろうが! 大丈夫か。ど真ん中だぞ!」


 荒之尾すさのおがその一本足を降ろしつつある場所は、まさにコイチたちの真上だった。

 と、コイチの足元に異変があった。

 海驢あしかや菅や絹で出来た“海畳”が、ゆっくりと回転を始めたのだ。

 それは明らかに上空の竜巻と連動しているようだった。


 グルグルと周囲の景色が回り始め――

「……怖い」

 それまで気丈に耐えていたハルが初めて弱音を吐いた。

「………」

 コイチはゆっくりと跪き、ハルを抱きしめる。

 出来ることといえば、それしかなかった。

「大丈夫だ。俺がいる」

 ハルは顔をコイチの胸に埋め、ぎゅっとしがみついた。


 海畳の回転は、傍から見てもはっきりと分かるほどの動きとなった。

 海畳は周囲の船と連結されている。

 ために船も回転に引きずり込まれ、あちこちで衝突や混乱が起こり始める。

「切り離せ! 海畳の綱を切るのじゃ!」

 すかさずシコメが指示を飛ばす。

 あちこちで鉈が振られる音がし、海畳は完全に孤立した。


 荒之尾すさのおは、その間も絶えず伸展を続け、それにつれ海畳の回転も早くなる。

 コイチとハルはもう腰のあたりまで海に浸っていた。

 尾の先端もすぐ手を伸ばせば届くくらいの高さになる。

「………」

 ハルは顔を押し付けたまま、コイチに抱きつく腕を強くする。

「ずっと一緒だから、ハル」


 コイチはぎゅっと目をつむった。

 海面はすでに肩のあたりまで来ている。

 ――ハル。


 渦巻きは海の底が抜けたような猛烈な回転となり、硬く抱き合った二人を包み込むように、海畳ごと呑み込んでしまった。

 同時に、天空から降りてきた荒之尾すさのおは、ついに海面に着表し、天地が一本の柱で繋がる。


             ☆  ☆  ☆


 海を沈黙が支配した。

 誰しもが、呆然とした表情で、何もなくなった海面を見つめている。

 荒之尾すさのおは海面に到達すると同時に、一瞬にして散会し、跡形もなく消え去っていた。

 コイチも、ハルも、50メートル四方はあった海畳も、完全に海に没している。

 誰も、言葉を発することができなかった。


 ややあって、ようやく我に返ったのは裴洋だった。

「お、おい、助けなくていいのかよ。沈んじまったぞ。あの二人」

 慌てる裴洋だが、護はこの世の終わりのような青褪めた表情をしている。

「いいんじゃ。あいつは、このまま、死んでしまった方が……」

 呻くように言う。

「いや、お前の弟子なんだろ」

「ならんのじゃ、こればっかりは」

「結局、今のはなんだったんだよ」


「――神婚じゃ」

「分かりやすく説明しろよ」

 護は自嘲するような笑みを浮かべる。

「そう言えば、異国の人間じゃったな、おぬしは」

 腹を据えたようにドンと船底に腰を下ろすと、護は、

「何処から説明すればいいのやら。――まぁ、とりあえず、ここに、一対の兄弟があると思え。神話の時代、名前は、海幸彦と山幸彦じゃ」


             ☆  ☆  ☆


 海の幸を獲る兄と、山の幸を獲る弟。

 ある日、兄弟はお互いの猟具を取り換えることにした。

 山幸彦は兄の釣り針を、海幸彦は弟の弓矢を――

 しかし山幸彦は慣れない釣り針をうまく扱えず、あげくに失くしてしまう。

 兄にそのことを告げると、激しく非難され、必ず元のものを取り戻すよう厳命されてしまう。

 困り果てた山幸彦は、海岸を彷徨い歩き、偶然出会った塩土翁の導きによって、海神の館へと赴くことになる。

 そこで海神にいたく気に入られた山幸は、潮満玉、潮干玉という神珠を授かり、海神の娘である豊玉姫と結婚することになった。


             ☆  ☆  ☆


「その際に行われた契りの儀式が、いまおぬしが見た神婚じゃ。海驢あしかの皮を八重に敷き、絹の畳を八重に敷き、とな。これによって、弟の山幸彦は、山だけでなく、海をも支配する力を得た。そして潮を自在に操り、兄を屈服させるんじゃ」

「―――」

「山幸彦の子孫が、すなわちヤマトの大君の血筋となり、海幸彦の子孫が、我ら隼人となる」

 護の表情はより一層苦くなる。

「コイチは、隼人でありながら、海神の娘と契ってしまったのじゃ」


「大君ってのが、この国の王の称号なんだろ? で、つまり、あの小僧は、倭国を支配する、“神話的正当性”を得たと、そういうことなんだな」

「………」

 蒼褪める護をよそに、裴洋はにんまりと笑ってみせる。

「面白いじゃねーか。さっさと海に潜って、あいつを助けて来いよ」


「ば、ばかもん。言ったであろう。あいつは死んだほうがいいのじゃ」

「なんだよ、話しを整理すると、お前ら隼人ってのは、支配される側の人間なんだろ? ――悔しくないのか?」

「むぐぅぅ」

「俺だったら、あの小僧を引っ担いで、国をひっくり返すがな」

「たわけたことを! なんと不敬なことを。そんなことをしてどうなる!」


「どうなるもこうなるも、せっかく男に産まれたんだ、テッペン目指さないでどうする」

「そ、そんなことをして、どれだけの人死にが出ると思う。国も船も同じじゃ。すでに沖合に出た船を、造り替えることなどできん道理じゃ」

「だが船頭くらいなら、入れ替えれるぜ」

「………」

「へへ、まんざらでもないって顔してるな。何なら見せてやろうか。本場の易姓革命ってやつをよ」

「ば、ばば、ばっかもーん。も、もうお主のことなど知らん!」

 護はプイとそっぽを向く。

 梃子でも応じない姿勢だ。

「フン。つまんねー奴だな。俺が海に飛び込んで助けてやってもいいんだが、あいにくまったく泳げねーんだよ」

 裴洋は、恨めしげな眼差しを海面に向ける。


             ☆  ☆  ☆


 海月クラゲたちが海中を乱舞していた。

 数百、数千の群れが、潮のうねりに身を任せ、夢幻の光景をかたち作っている。

 それはまるで宇宙のようだった。

 そのなかに、ひときわ大きな個体があった。

 群小の海月を押しのけ、20メートルになんなんとする触手を潮流になびかせ、その胴体部には、固く抱き合った十歳の男の子と女の子が密やかに蔵されている――

 我が国の始まりを記録した『古事記』にはこう記されている。

『国わかく、浮けるあぶらの如くして、海月クラゲなすただよへる時、葦牙あしかびの如く萌え騰がるものによりて――』と。

 ひときわ巨大な海月は、やがて深淵の彼方へと消え去っていった。


 これは、こうして始まった千年間の物語である。


             ☆  ☆  ☆


 『千年の孤独 琉球篇』は、これで完結となります。

 以降、『明日香篇』『壬申の乱篇』へと続きますが、執筆時期は未定となっています。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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千年の孤独 yasutaka @rouninn

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