第30話

 天蓋つきの寝台に横たわり、楊広は眠れないでいた。

 天下を統べる男といえど、こればかりはどうしようもない。

 傍らでは半裸体の女がすやすやと寝息をたてている。


 楊広は右手にしたものを掲げる。

 純金の首飾り。

 どこかで見たのだ。

 だが思い出せない。

 材質は一級品らしいが、デザインはシンプルだ。

 長い縦棒と、短い横棒を組み合わせたのみ。

 ためつすがめつするが、やがて諦めた。


 いつの間にか睡魔が襲ってきていた。

 女を動かさないように横になり、背後から抱きしめる。

 天蓋の幕が下りてくるように、楊広は眠りについていた。


 夢の中で、己は玉座に座り、いつものように政務を執っている。

 衛兵によって玉前に引き出されてきたのは、西域人とおぼしき彫りの深い顔立ちの男。

 学者然としたそのたたずまいは、仏教の高僧をおもわせる。

『名は何と申す』

『イザヤでございます』


 楊広はハッと飛び起きる。

 思い出した。

 あいつだ、あの西域人の持ち物だ。

 と、女がおびえたように身を起こした。

「いかがなさったのでございますか」


 楊広は女を無視する。

 視線は一年ばかり前の出来事に飛んでいた。

 イザヤと名乗る男は、首から十字の鎖を下げていた。

『国はいらぬか』

 己は確かそういった。

『いずれ西域も、その先の国々も、我のものになる。我に服せ。さすれば国のひとつくらいを預けよう』

『お断りいたします』

『なにゆえだ。国を追われたのではなかったか? 悔しくはないか。復讐したくはないか。我が臣下となれば、百万の兵でそれらを皆殺しにして、お前の頭上に王冠を載せてやろう』

『地上の権力に興味はございません。わたしが首を垂れるのは、神のみでございます』


 あの時の会話が耳朶によみがえる。

 男と生まれて、権力を望まぬとは――

 不思議な生き物でも見るような心持ちは、やがてフツフツとした怒りへと変容していった。

 これまでに感じたことのない怒り。

 敵ならば、いままでもいくらでもいた。

 だがたとえ政敵であっても、反逆者であっても、求めるものは同じだ。

 同種の存在。殺し合うのは、席が一つしかないためにすぎない。


 だがあの西域人は違った。

 己が人生をかけて追い求めているものが、他人によって塵芥のように扱われる。

 許されることではない。

 ――宗教か。

「誰ぞ、ある!」

 深更であったが、すぐさま宿直の家臣が飛んでくる。

 十字の首飾りをつきつけると、

「これと同じものを持つものが、我が都のうちにおるのなら、細大逃さず調べつくし、主だったものをここへ引き連れてこい!」


 数日ののちにそれは果たされた。

 景教――ネストリウス派のキリスト教である。

 唐代に流行したと伝えられるが、すでに楊広の時代にも、首都の大興(長安)で数百人の信者を獲得していた。


 楊広の前に引き据えられたのは、漢人信者集団の頭目である壮年の男。

 同じ宗教を信じる者は、顔貌も似てくるのか、あの西域人と同じような学者然とした雰囲気を漂わせていた。

 意固地そうなところまで瓜二つである。


 この者どもがいかなる思想を持っているか、イザヤである程度経験済みである。

 ために楊広はいきなり拷問から始めた。

 かがり火で熱した剣の腹を、男の頬に押し付ける。

 肉が焼ける香ばしい匂いがあたりにただよった。


 ――神のほかに主なし!

 やはりだ。

 楊広はほくそ笑む。

 取り澄ました顔の裏には、頑なまでの強情を隠している。

 皮膚をはがしてしまえば、憎悪の念が火傷のように姿をあらわすに違いない。

 楊広は目の前の男を、全身火で炙ってみたい衝動にかられた。

 ――貴様になど頭をさげぬ!

 信仰心とやらが消し炭になるまで。


「こいつ!」

 立ち合いの大臣が言葉を荒げる。

「言葉を慎め!」

「よい」

「は、なれど」

「よい。火傷の手当てをしてやれ」

 意味をはかりかねて、閣僚たちが顔を見合わす。

「“解き放つ”のだ」

 楊広の命令通り、景教の信者の男は、無罪放免、解き放たれた。


            ☆  ☆  ☆


 男はヨタヨタと歩いていく。

 体力はすでに限界に近い。

 視界が揺らぐのは、死が迫っているせいか、あるいは砂漠の蜃気楼か。

 背に木製の巨大な十字架を背負い、砂漠に足を取られながら、“西”へと歩いていく。

 立ち止まることは許されない。

 背後から、銅鑼や太鼓の音が追いかけてくる。

 ザッ、ザッ、ザッと、天を圧するような音は、数十万の人間が奏でる足音だ。


 609年、楊広は自ら兵を率いて吐谷渾への攻撃をおこなった。

 十字架の男は、たったひとりの“先駆け”として、数十万の隋軍の先頭を歩かされていたのだ。

 長征を成功裏におさめると、楊広はまるで西域方面へ蓋をするように、西海郡と河源郡を設置した。

 あるいは景教徒の流入を、これ以上は許さないという意味があったのかもしれない。

 どちらにしろこれで、何蛮のもくろむ“皇帝の琉球親征”はなくなったのだ。

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