第52話

 ふと、人の気配に気づいた。

「ハ……ル……?」

 意識がかすみ、今がいつなのか、ここがどこなのか、それすら分明でない。

 瞼の上からでも、ギラギラと南国の太陽が照り付けるのが分かる。


 自分は木の根元を背もたれに、砂浜に座っているらしい。

 コイチはそっと薄目を開ける。

 途端に目玉に激痛がはしった。

「うぅ……」

 おぼろげながらに、記憶がよみがえる。

 師匠であったはずの護に、昏倒させられたのだ。

 そしてイザヤは殺され、ハルは再び連れ去られた。

 神の生け贄にするために。


「ハル……」

 コイチはもう一度瞼を押し上げる。

 徐々に光の刺激に慣れてきて、目の前に、華奢な二本の足が立っているのに気づく。

「ハル!」


 思わず大声を出すと、少女がビクリと身を震わせた。

 浅黒く日に焼けた、自分と同年代くらいの女の子。

 だがそれはハルではなかった。

 どうやらこの島の女の子らしい。

 怯えているのか、微笑んでいるのか、よく分からない表情を見せて、少女は駆け去っていった。

 気付くと、焼き魚が椰子の葉の上にのっている。

 これを届けてくれたのか。


 コイチはようやく覚醒した。

 どれくらい自分は気絶していたのか。

 隋軍の姿はもちろんなく、イサフシたちも、島民たちの姿もあたりにはない。

 呆れるほど平穏な、琉球の砂浜の景色が目の前に広がっているだけだ。

 グゥと腹が鳴り、焼き魚に手を伸ばそうとして、初めて自分の両手首が縄で縛られているのに気づいた。


「ぐぬぅぅ」

 後ろ手に、なんとか縄をねじ切ろうとするが、徒労に終わる。

 コイチは横倒しに倒れる。

 その拍子に魚が砂にまみれてしまった。

 グウ、グウ、と腹の虫が食べ物を要求する。

 コイチは芋虫みたいに身体をよじることしかできない。

 不意に涙があふれてくる。

 自分は何もできなかった。

 ハルを助けることも、イザヤのおっちゃんを助けることも、異国の軍隊を退けることも――。


 あまりにもちっぽけだ、自分は。

 10才の男の子のことなど、眼中にないかのように、海は規則的な潮騒の鼓動を刻み続ける。

 自分がこのまま死んでも、海はなにも変わらないし、百年後も、千年後も、このままであり続けるだろう。

 そう考えると、コイチは無性に悔しくなった。


 コイチの頬を大粒の涙が伝い始めたとき、ふいに影がさした。

 顔を上げると、イザヤだった。

「なんで……、おっちゃん……、死んだんじゃ」


「わたしもそう思った。だが、生きている。理由は聞かんでくれ。自分でもわからんのだ」

 イザヤはかすれるような声でそう云い、己の左胸をさする。

 心臓を貫いていたはずのシコメの槍は、今は抜き取られ、垢じみた麻の上衣に穴が開いているだけだ。

「おっちゃん」

 堰を切ったように、コイチは泣きじゃくり始めた。

「俺、どうすれば」


 イザヤはふらつく足でコイチに歩み寄り、手を縛る縄を切ってやる。

「泣くな。――やるべきことは、分かってるんだろ?」

 コイチは無言のまま頷く。

「あそこに――」

 とイザヤは顎をしゃくって、

「船を用意した。急げ。手遅れにならないうちに」


「イザヤのおっちゃんは?」

「わたしは、さすがにもう動けないらしい」

 イザヤは木陰に倒れ込む。

 生者とは思えないほどに顔色が悪い。

「わたしに構うな。ハルのもとへ急げ」

 コイチはもう一度力強く頷く。

「ありがとう。ハルを助けたら、すぐ戻ってくるから」

 イザヤは力なくほほ笑んで、返事にかえた。


 コイチはすぐさま小舟に乗り込む。

 すこしばかり沖合に船を押し出し、なにか確信があるかのように仁王立ちになって、待つ姿勢だ。

 やがて、サンゴ礁の浅瀬に、黒い潮流が漂ってきた。

 “道敷の大神”の手の群れだ。


 “道敷の大神”は“黄泉の大神”でもある。

 死を覚悟した者にだけ、望む場所へ導いてくれる。

 ハルを救いたいというコイチの覚悟が、認められたということだった。

 コイチは満足げに微笑むと、あとは潮の流れに船を任せた。


                ☆  ☆  ☆


 コイチの乗る小舟は、やがて見えなくなった。

 イザヤは大きくため息をついて、左胸に手をやった。

 確かに自分は死んだはずだった。

 背後から心臓を刺し貫かれる、疑いようのない激痛の記憶もあった。

 上衣をめくり上げると、左胸のあたりがジュクジュクと膿みつつも、ふさがろうとしているらしいのが見て取れる。

 ありえないことだ。

 何か超常の出来事が起こっているとしか思えない。

 神の御業か、それとも――

 皮肉なことであった。

 自分に課せられた使命は、救世主馬の子を殺すことだったのだ。


 救世主という言葉には、二重の意味があった。

 それは、キリスト教がユダヤ教から派生した宗教であるという歴史的事実に起因する。

 その元来の意味は、“地上の救い主”というものでしかなかった。

 つまりは、ダヴィデの後継者。

 現実の世界で、イスラエルの国家を再建してくれる軍事的な英雄。


 だがそれが、イエス・キリストの出現によって、全く別次元のものへと変容してしまった。

 イエスの福音が異邦人のあいだにも浸透しだし、それにつれ“救世主”という言葉は“純化”され、宇宙次元へと“止揚”された。

 ついには“救世主”は全人類の魂の救い手を意味するものとなる。


 その神学的成果を教団の上層部が握りしめたとき、不都合なことが起こった。

 “救世主”という言葉を、いまだに“ダヴィデの後継者”の意味として使い続ける者たちがいるではないか。

 しかもそれは、神の子を十字架刑においやったユダヤ人キリスト教徒たち。


 馬小屋で産まれた男児が救国の英雄となる、――そんな土俗的なエピソードは、キリスト教の歴史から抹殺されなければならない。

 イエスは神の子であって、馬の子ではない、断じて!

 ローマの教皇庁は対応に苦慮した。

 処刑することも考えられたが、下手をするとそれが殉教者を生み、あらたな異端となりうる。

 いかにすべきか――


 なるべく穏便に自分たちの視界の外へ追いやる、それが教皇庁の出した答えだった。

 救世主、すなわち“馬の子”を見つけ次第、殺すこと。

 それが出来れば、ローマ帝国内において居住することを許す。

 かくしてイザヤの先達たちは、長い旅路に出たのであった。


 それが体のいい追放のための遁辞であったことなど、皆が気付いていた。

 だがそれでも、旅立たざるを得なかった。

 大陸のあらゆる場所を彷徨い、イザヤの父祖たちは“馬の子”を探し求めた。

 それが叶わぬまま、導師の地位がイザヤにまわってきた。

 衆に抜きんでた記憶力が買われての抜擢だった。


 だが、記憶力などなんになろう。

 月日はいたずらに流れ去り、永遠とも思える旅路の果てで、隋帝国の遠征軍に出くわした。

 首都まで連行され、皇帝への服従を強いられたが、イザヤたちは拒絶を選んだ。

 処刑される寸前、辛うじて脱出したイザヤたちは、船を奪って海に漕ぎだした。

 海の向こうには、倭国という島国があるらしい。

 大陸のどこにも自分たちの居場所はなかった、あとはそこに希望をかけるしかなかった。

 だがその途上、イザヤは弟のレメクに裏切られたのだった。


                ☆  ☆  ☆


「レメクめ、今頃は――」

 イザヤは海の彼方に想いを馳せる。


『その倭国というのは、誰によって支配されてるのだ?』

 イザヤは護に聞いたのだった。

『誰、といわれてもな、実は難しいのだ。三人の御方がいるのだが、一体だれが一番偉いのか、ワシのような田舎者には、とんと……』

『ほう』

『まずは大君様だ。形式上は一番偉い方だ。女性で、額田部の大君と呼ばれる』

『ヌカタベ?』

『ああ。ヌカ、とは、ひたいのことで、そこに渦巻き模様の旋毛が生えている駿馬を意味する。わしの故郷の、大隅国のすぐ北にある日向国の名物だ。その額田部氏に養育されたというので、額田部の大君』

『………』

『そして次が蘇我馬子さま』

『馬の子、か』

『そして三人目が、豊聡耳皇子さま。大君の位には登っておらぬが、わしは実はこの方が国の舵取りをなさっていると睨んでいる。別名を、厩戸皇子ともいう。母君が厩で産気づいたのだ』

『………』


 イザヤはしばらく笑いが止まらなかった。

 護はきょとんとする。

 大陸中をあれだけ探し回っても見つからなかった救世主“馬の子”。

 それがいっぺんに三人も見つかるとは。

 そしてその統治する国を目の前にして、己は弟に裏切られ、海に投げ出された。

 笑わずにはいれらなかった。


 あれから数か月。

 嵐で沈没したのでもなければ、弟たちはとっくに倭国にたどり着いているだろう。

 どうするのか、あいつは。

 妻は、息子は、民人たちは。


 イザヤは胸の激痛に顔をゆがめる。

 傷は少しずつ塞がりつつあるが、痛いことに変わりはない。

 ――心臓を貫かれながら、なぜ自分は死なないのか。なぜ生かされているのか。

 役目を全うし、救世主を殺せという、神の御心か。

 それとも悪魔の誘いか。

 気を失う寸前、イザヤは天を仰いだ。

「神よ、私はここにいます。私を見捨て給うな」

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